NHKの大河ドラマ「どうする家康」が終了しました。
殿、俳優やスタッフのみなさま方、まことに‥ごくろうさまに、ございました。

さて当館でも、この機会にと、市民の方々に知っていただきたい平塚市内の家康伝説を展示紹介したり、その時代に見られた天文現象をプラネタリウム解説したり、と展開してきたところですが、ひとあし早く12月10日(日)でほぼ終了となりました。本編は、その「おまけ」として、家康が眠る日光の、星にまつわる伝説をひとつ紹介します。

「神橋」

これは、日光に深い谷を刻む大谷川に架けられた「神橋」という橋。
東照宮や輪王寺など神仏混淆の信仰地日光山は右岸にあります。橋はふだん、人や車は渡さず、神事にのみ用います(いまは有料で上れます)。

磐裂神社

先ほどの写真の左岸にひっそりと佇む小さなお社が、日光の星宮、磐裂(いわさく)神社です。

『日光山志』天保八年 植田孟縉 編輯 石槗真國 謹校 櫻井東 謹校 |勝田閑齋 謹校
『日本古典籍データセット』(国文研等所蔵)
提供:人文学オープンデータ共同利用センター http://codh.rois.ac.jp/

私は、歴史が専門の学芸員ではありませんが‥江戸時代も終わりに近い天保8年に刊行された『日光山志』に、次のように紹介されています。

星宮(ほしのみや)
下馬の南なる山麓、杉の古樹社遍を圍繞《いにょう》す。この宮、小社なりといえども、日光緇素《しそ》大切なる社頭《とう》なり。その来由を爰《ここ》に省略してしるさんには、当山開祖上人いまだ御幼稚にておわせしころ、御童名を藤糸丸と称し奉れり。天平十三癸丑《みずのとうし》、藤糸丸七歳の秋、或夜、明星天子忽然として降臨ましまし、親《まのあたり》告げて宣はく、
「二荒山《にこうざん》は神代より以降、大己貴命《おおいむちのみこと》、田心姫命《たごりひめのみこと》、味耜高彦根命《あじすきたかひこねのみこと》垂迹の霊地にして、三神とこしなへに彼の山頂にましませり。しかるに、汝、兼《かね》て三神と宿縁厚うして頗る法器を備ふ。速やかに大心を発《おこ》し彼の山川を跋渉して三神に値遇し奉り、勝地を草創して遠く末代の群生を済度すべし。我はこれ虚空蔵の垂迹なり天に在《あり》ては大白星《たいはくせい》とあらはれ、此《この》土《ど》に来下しては磐裂《いはさく》の荒神たり」
と告訖《おわり》て、忽然として見え給はず。藤糸奇異の思いをなし是より信心膽《きも》に銘じて発心常に怠り給はず、遂に二十七歳の春、薙髪授戒して当山開基の功業を成し給へり。上人、曽て四本龍寺におはせし時、徒弟の人々に告て宣く、吾、此の霊山を開き精舎を建て天下の為に帰依せらるること単《ひとえ》に明星天子の神勅、深砂大王の擁護によれり。汝等及末代我が耳孫たるものは、常に此の両神を尊崇して、必ず神恩を忘失すべからずと。茲に因りて建立修行記に云はく「河の南涯に当たりて山あり。精進峰《しょうじんみね》と名づく。神を崇めて星《ほしの》御前《ごぜん》と号す」云々。又云わく「河の北涯に深沙王を崇む」云々。是に仍《よ》って是を観れば、星宮《ほしのみや》は当山権輿の基《もとい》にして上人の恩沢遠く今に及ぶも全く二神の冥助に出《いで》て恰《あたかも》比叡の山王《さんのう》赤山に斉《ひと》し。小社といえども疎かなるべけんや。此のゆえに今猶《なほ》東西町にて星宮《ほしのみや》并《なら》びに虚空蔵を以て総鎮守と崇め奉れり。

要約すると‥

奈良時代に日光を開山したとされる勝道上人が幼少のころ、ある夜、枕辺に突然、明星天子が降臨し「自分は虚空蔵菩薩の垂迹で、空では太白星(金星)、この土地では磐裂神である」と名乗り「お前は見込みがある。日光を開山して後世の救いとなれ」と促しました。そこで上人は一念発起、精進の末に、ついに開山事業を成就させました。のちに上人は弟子たちに、日光の創業はかの明星天子のお告げのおかげだから、この地に深沙大王とともに星宮をまつって末代までおろそかにしてはならない、と語りました。つまりこの星宮は日光山の礎であり、比叡山でいえば日吉大社(全国の日枝、日吉、山王神社の本社)にも例えられる。そのようなわけで今も、日光の町では星宮と虚空蔵を祀って総鎮守としている。

といったところです。神社のご祭神は磐裂神としていますが、ここには、元は明星天子=虚空蔵菩薩の化身であり、日光山を開いた勝道上人の幼少の枕に立ったのだということが述べられています。

星の宿

磐裂神社からさらに少し登ると、星の宿と名づけられた、かつての修験者の修行場があり、切石を長方形に並べ、小さな鳥居を建てた護摩壇が残されています。奥には明星天子を祭る祠があって、前を、不動明王が護っています。

修験の護摩壇が常設される例は珍しいそうです。ここはそのように霊気に満ちた聖なる場所だったのでしょう、日光山内の人々からは篤く信仰され、東照宮が造営され日光が大きく変容した後も、山内から門前の東町に移された人々は、分祠して虚空蔵尊を地区に祀り、総鎮守としたのでした。

虚空蔵尊

山岳信仰の聖地であった日光は、江戸から明治へと政治に翻弄されても、なおここには古くから息づく信仰と星への尊崇が脈々と息づいて、私たちに語りかけてくるように思われます。

「平塚の家康伝説マップ」もぜひご利用ください