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ひらつか歴史紀 第22回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その2

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第22回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その2(古文書にみる戦国時代の相模川・相模湾水運)


  前回は相模川・相模湾水運の結節点である須賀村の概要をみました。今回は須賀に残された戦国時代の古文書の紹介を通して当時の須賀と相模川・相模湾水運の様子をうかがってみたいと思います。

  さて、相模川による物資の移動は縄文土器の分布状況などにより、原始からあったと考えられますが、文献上、具体的に相模川・相模湾における水運が確認できるのは戦国時代からです。平塚市博物館には戦国時代に須賀村の小代官を務めていた清田・田中両氏へ出された小田原北条氏からの印判状が寄託されています(市指定文化財)。これらのうち水運に関わる古文書を年代順に紹介します。なお、ここで紹介する古文書はすべて博物館1階常設展示室で釈文・解説とともにレプリカを展示しています。

【史料1】永禄9年北条氏康印判状 【史料2】元亀元年北条氏印判状
【史料1】永禄9年北条氏康印判状 【史料2】元亀元年北条氏印判状
 
【史料3】天正2年北条氏印判状 【史料4】天正13年北条氏印判状
【史料3】天正2年北条氏印判状 【史料4】天正13年北条氏印判状
 
【史料5】年不詳北条氏印判状
【史料5】年不詳北条氏印判状

  【史料1】は永禄9年(1566)10月6日の北条氏康印判状で、小鳥のえさに使うアジを200匹、至急網場から進上するように須賀の田中氏へ命じています。ここからは漁業とともに魚の急送がおこなわれていたことがわかります。
  【史料2】は元亀元年(1570)7月20日の北条氏印判状で、麦130俵を須賀から熱海まで船で輸送するように命じています。ここからは須賀が相模平野で収獲された農産物を集積し、出荷する役割を担っていたことがうかがえます。
  【史料3】は天正2年(1574)正月24日の北条氏印判状で、津久井(現相模原市)・七沢(現厚木市)から伐り出された材木を保管し、船が到着次第、その船に渡すよう須賀の田中・清田両氏へ命じた文書です。材木はやぐらの用材とされています。ここからは津久井や七沢などの上流で伐採された山林資源が相模川を通して須賀に集積され、須賀から積み出されていたことがうかがえます。【史料2】とともに、須賀が物資の集散地であったことがわかります。
  【史料4】は天正13年(1585)8月23日の北条氏政印判状で、陣で御用となる大鯛20枚を浜辺で塩をふり、船で運ぶように須賀の小代官・舟持中に命じています。この文書は当主氏直が出陣中のため、隠居の氏政の印による命令となっています。ここからも【史料1】と同様、漁業とともに船による魚の運送が確認できます。
  【史料5】は年不詳3月27日の北条氏印判状です。当麻(現相模原市)の渡瀬を越えるため、船10艘を当麻の船着場まで廻送するように須賀の小代官・船持中へ命じた文書です。ここでは須賀の船が相模川の渡河のために当麻まで動員されたことがわかります。
  以上の史料から、断片的ながら、相模川・相模湾が物流の経路として利用され、須賀は当時からその結節点として重要な役割を担っていたことがわかります。また、地域の有力者である清田・田中両氏が小代官として小田原北条氏に把握されていたこともわかります。須賀は戦国時代から水運上、重要な役割を担っていました。しかし、江戸時代になり、巨大都市江戸が建設されるようになると、相模川・相模湾の物流はさらに大きなものとなっていきます。


【参考文献】
 2009年度秋期特別展図録「山と海を結ぶ道 相模川・相模湾の水運」
 西川武臣「近世の相模川・相模湾水運―津久井・須賀・柳島・神奈川―」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』33号 2010年)
 早田旅人「近世相模川・相模湾水運における須賀村の位置」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2013年)
 

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