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ひらつか歴史紀 第23回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その3

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第23回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その3(相模川・相模湾水運と発展と湊の展開) (2011年2月号)


  前回は戦国時代の須賀の古文書の紹介を通して当時の須賀と相模川・相模湾水運の様子をみました。今回からは近世以降の水運の様子を見たいと思います。

  さて、天正18年(1590)、豊臣秀吉により小田原北条氏が滅ぼされると、関東は徳川家康の領国になりました。徳川家康は江戸城に入城し、慶長8年(1603)には江戸幕府を開き、以後、江戸は巨大城下町として発展していきます。
 一方、小田原藩領を除く相模国には徳川直轄領、旗本領が設定されました。とくに平塚市域を含む中郡(大住郡・愛甲郡・淘綾郡)はそのほとんどの村が徳川直轄領となり、徳川将軍家の財源となりました。その中郡の直轄領を支配したのが中原代官でした。元禄4年(1691)に作成された須賀村と柳島村(茅ヶ崎市)の廻船業の独占をめぐる争論(後述)の訴状によると、寛文期(1661縲鰀1672)ころまではその年貢米は中原代官により「西郡・東郡之御城米は須賀舟ばかり積み申し候」と須賀村の船で送られていたといいます(『茅ヶ崎市史』1近世№101)。須賀村の属する中郡の年貢米も須賀湊から送られたと思われますが、ここでは西郡(足柄上郡・足柄下郡)・東郡(高座郡・鎌倉郡)の年貢輸送も須賀村の船が一手に担っていたとあり、須賀湊は相模湾岸の海運の中心地であり、とくに年貢輸送に関しては独占的な地位にあったことがうかがえます。
 しかし、江戸の都市的発展や相模国の経済的発展とともに、相模川・相模湾の流通量も大きくなり、周辺の水運も発達していったと思われます。須賀村の水運上の地位は次第に相対化されていきました。先ほどの須賀村が年貢輸送を一手に担っていたことを記す史料には続けて「近年は内浦金沢領或いは長井之舟出船致し積み送り申す御事」と記されており、元禄のはじめごろには金沢(横浜市)や長井(横須賀市)の船も年貢輸送に参入するようになっていたようです。そうしたなか発生したのが須賀村と対岸にある柳島村の廻船業の独占をめぐる争論でした。
 この争論は元禄4年2月、柳島村が同村の船による廻船の実績例を挙げて、柳島村での廻船営業の許可を幕府に求めて始まりました。これに対して須賀村は廻船業の独占を望み、須賀村は馬入の渡船役を負担しているが、柳島村では負担していないことを理由に柳島村の主張に反対しました。そして、5月、幕府は廻船業を「須賀一村に相定めるべきいわれこれ無く」として須賀村の独占を認めず、柳島村の廻船業を許可する裁許を下しました。なお、これにともない、柳島村も馬入の渡船役を負担することになりました(『茅ヶ崎市史』1近世№102)。

元禄4年(1691)5月 須賀村・柳島村湊争論につき裁許状(個人蔵)
元禄4年(1691)5月 須賀村・柳島村湊争論につき裁許状(個人蔵)
柳島村は幕府から廻船営業を許可されたが、馬入の渡船役の負担を負うこととなった。

 この争論の直接のきっかけは須賀村地内を流れていた相模川の流路が柳島村地内へと流れる流路の変化がありました。しかし、争論が発生する背景には前述の年貢輸送における須賀村の地位の相対化にみられるような流通量の増大や水運業の発達があったと考えられ、幕府もそれに対応して柳島村の廻船の営業を許可したと考えられます。
 廻船営業を許可された柳島村ですが、今度は柳島村と隣村の南湖村(茅ヶ崎市)の間で争論が発生しました。発端は元禄13年に南湖村の文右衛門が押送船(船足の速い主に鮮魚を輸送する船)を新調し、柳島湊に入津したことです。柳島村では船宿をとらない文右衛門の入津は違反だと申し入れ、文右衛門はこれを受け一度は柳島村の百姓を船宿にしました。しかし、その後、文右衛門だけでなく他の南湖村の者も船宿をとらずに勝手に柳島湊を利用し、元禄15年11月には南湖村の人々が大勢で押しかけ、湊に小屋を建ててしまいました。そこで柳島村が幕府に南湖村を訴えて争論になったのでした。南湖村は柳島湊は柳島村と南湖村の「入相之湊」であるとして南湖村の柳島湊の利用の正当性を訴えましたが、幕府は南湖村の主張を退けたうえで南湖村の押送船が柳島村百姓を船宿にして柳島湊を往来することを認めました。
 以上にみたように、元禄期以降、廻船であれ、押送船であれ、湊周辺の村々は水運への関わりを求め、既存の利権を守りたい湊を持つ村との綱引きが顕在化するようになりました。この背景には江戸の都市的発展にともなう物流・経済の発達があったと考えられます。元禄3年の幕府による相模国の湊の調査では、相模国の湊は浦賀(横須賀市)・上宮田(三浦市)・長井(横須賀市)・秋谷(横須賀市)・小坪(逗子市)・江之島(藤沢市)・須賀の「七之浦」が書き上げられましたが、天保期(1830~1843)には「七之浦」も含めて21か所に増えました。湊は近世を通じて増加していったのです(『平塚市史』9)。


【参考文献】
 2009年度秋期特別展図録「山と海を結ぶ道 相模川・相模湾の水運」
 西川武臣「近世の相模川・相模湾水運―津久井・須賀・柳島・神奈川―」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』33号 2010年)
 早田旅人「近世相模川・相模湾水運における須賀村の位置」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2013年)


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