わたしたちは「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館です

屋外展示
屋外展示

●敷石住居跡
 (岡崎・上ノ入遺跡より移築)
 昭和51年に岡崎小学校新築工事に伴う発掘調査を博物館で行いました。その時に発見された縄文時代後期の敷石住居跡を博物館の庭に移しました。この移築作業には遺跡の調査をお手伝いして下さった岡崎の西海地稲作研究会の会員の方も加わって、手作りで再現しました。
 総重量が約1トンもある石は輝石安山岩(根府川石)ですが、縄文人はどのような方法で運んできたのでしょうか。丸木船を使ったと考えますが、直接取りに行ったのか、交易品として運ばれてきたのかまだ謎です。
 一般に敷石住居は関東地方西部から中部地方に多く見られ、縄文中期後半に出現し、後期前半に最盛期を迎えます。この住居の成立過程は、敷石の一部に石柱・石壇が設けられる例もあり、これに埋甕を埋設した小さな張り出しをもつ住居が出現し、その後、全面敷石と張り出し部の発達によって、柄鏡形敷石住居と呼ばれる特異な形態の住居が出現したと考えられています。この住居の性格は祭祀的特殊施設とする考え方と一般住居の一形態とする考え方がありますが結論は出されていません。
 なお、上ノ入遺跡では縄文後期の配石遺構や中期の住居跡群(有孔鍔付土器や炭化球根出土)も確認されています。


居跡敷石住居跡の平面図

居跡敷石住居跡

●西丹沢の岩石
(産地:山北町丹沢湖水没域)
●東丹沢の岩石
(産地:清川村宮ヶ瀬湖水没域)
 西丹沢の岩石は酒匂川支流である中川川から、東丹沢の岩石は相模川支流の中津川から、ダム工事中に神奈川県企業庁より提供を受けたものです。いずれも丹沢を代表する岩石で、かつて丹沢が海底火山として活動していた証拠を示す様々なタイプの凝灰岩類と、地下深部に貫入したトーナル岩類(花崗岩類)などからなり、南の海からプレートに乗って移動し、本州に衝突して隆起し、丹沢山地となった大地の歴史を刻んでいます。


丹沢の岩石

●相模川流域の岩石
 相模川流域は大部分が丹沢山地や御坂山地 に位置しています。そのため、河原にはそれ らの山地をつくる凝灰岩類(海底火山の火山 など)が、良く見られます。こうした岩石は 最近の研究では、1500万年ほどまえに伊豆七島 のような南の海底での海底火山活動により形 成され、その後プレートに乗って運ばれ、本 州に衝突して作られたと考えられています。  また、桂川や相模川に沿っては2万年前よ り新しい富士山の溶岩や泥流が流れています。

相模川流域の岩石

●箱根の神代杉(樹齢700年)
 (産地:箱根町仙石原終末処理場)
 (寄贈:神奈川県西湘下水道整備事務所)
 約3100年前、神山で水蒸気爆発が起こり、これに伴う崩壊により山崩れ堆積物が早川をせき止め芦ノ湖を出現させました。この神代杉(ヒノキ)はこの堆積物中から産出したもので、芦ノ湖の生い立ちを物語っています。外輪山の丸岳付近から仙石原を見ると、神山が崩壊してできた扇状地地形がよく分かります。大涌谷は、箱根火山の最新の火山活動の名残をとどめています。


神代杉

●珪化木
 (産地:岩手県二戸郡一戸町産)
 (時代:約2000万年前・寄贈:内沢忠三郎氏)
 珪化木は木の幹の細胞中に水に溶けた珪素が入り、内容物と置換し、メノウやオパール化した材の化石です。日本では岩手県や福井県のものが有名で、庭石や置き石に利用されます。岩手県一戸町の珪化木は有名で、「姉帯・小鳥谷・根反の珪化木地帯」として国の天然記念物に指定されています。中でも、一戸町根反(ネソリ)の大珪化木は、セコイア杉の高さ6.4mの大木の化石で、国の特別天然記念物となっています。


珪化木

●チャート(赤碧玉)
 (産地:新潟県両津市赤玉) 
 (時代:二畳紀~中生代古期・寄贈:内沢忠三郎氏)
 チャートは放散虫という珪質な微化石が深海底で堆積したものです。鉱物的には、微細な石英(玉随)よりなり、多量の酸化鉄を含んで赤みを呈します。佐渡のチャートは緻密な朱赤色の色調が特徴で、佐渡赤玉石として観賞用飾り石や水石、庭石として珍重され、昭和40年頃まで採石されました。現在庭石としてよく利用されるチャートは、秩父中古生層と呼ばれる地層(秩父帯)に含まれるチャートで、群馬県鬼石町三波川などで採取されたものです。


チャート(赤碧玉)

●「礎」の礎石
 「礎」の碑は、1949年5月24日に開催された学校定礎式で、平塚市立の各学校に贈られた。 書は田中真洲の揮毫で、本礎石は平塚市立商業高等学校のものである。 学校定礎式は学校の戦災復興と新制中学建設にともなうもので、当時、平塚市立であった学校では、現在も残っているものもある。

「礎」の礎石
 
●「天道大日如来」石塔
 当館蔵(山下 近藤知行氏 寄贈)天保6年(1835年)
元は市内山下の県道に面して建てられ、のちに道路拡幅のため下山下の近藤家屋敷内へ移された石塔である。「おてんとうさま」と呼ばれ、塔身中央に「天道大日如来」の文字と大日如来の種子アーンクが彫られている。塔身左面に願主として近藤惣兵衛、台座左面には念仏講中20名の氏名が刻まれており、日乞いの天道(てんとう)念仏が山下で行 われていたことを推測させる。尊名は太陽信仰と大日如来との結びつきを示す。


「天道大日如来」石塔
 
●大 釜
 市内万田の造り酒屋、出縄酒造で使用していた大釜です。上に甑をのせて湯を沸かし米を蒸すのに用いられました。蒸米に椛と水を加えて桶へ仕込み、発酵させ、これを絞ったものが清酒になります。釜は三州釜といい、愛知県で製造されたもので、醸造用具 の機械化により使用されなくなりました。

大 釜
 
●甕 (かめ)
 昭和20(1945)年以前、毎軍火薬廠にて薬品の貯蔵に用いられていたという甕です。海軍火薬廠は、明治38(1905)年設立の日本爆発物製造株式会社を、大正8(1919)年に海軍が買収し、海軍兵器の爆薬や火薬を製造していた軍需工場です。総合公園や博物館も火 薬廠の敷地で、博物館北側のユリノキの巨木は、火薬廠時代からのものです。

甕 (かめ)

●仕込桶
 市内四之宮の漬物屋で使われていた桶です。大きさは直径、高さとも約2mあります。およそ30石(約5,400リットル)入りで、底板の厚みは10cmくらいです。30石とは300斗のことで、一升瓶3,000本分の容量です。造り酒屋や醤油屋でも同じような桶を仕込桶 として用いました。

仕込桶


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