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ひらつか歴史紀行 第41回

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ひらつか歴史紀行

 



第41回 平塚空襲 その5(避難する人々) (2012年12月号)


 前回は平塚空襲による人体への被害をみました。今回は空襲から避難する人々の動きをみていきたいと思います。
 平塚の空襲と戦災を記録する会でおこなう聞き取り調査では、空襲体験者から避難経路についてうかがっています。その避難経路の足跡を地図に示したのが【図1】です。この図からは、平塚空襲で避難する人々の避難経路の特徴がうかがえます。
 旧平塚市は北に火薬廠がひかえていることで、逃げ道が限られていました。東海道を隔てた南部も東西に大きな工場がありましたが、中央部には人家のまばらな松林が連なる地域もありました。そこで家屋密集地に住む人々は東西の川岸や海岸、松林、馬入・花水の田んぼに向かいましたが、【図1】からはそうした人々の動きがよくわかります。平塚は周囲に家屋のまばらな地帯が広がっていたので、火に囲まれずに脱出できる可能性は高いですが、火から逃れた避難先で焼夷弾の直撃などの被害をうける例が多くみられます。
 なお、証言からうかがえる平塚空襲の諸相には以下のようなものがあります。
1避難
(1)家屋密集地では、海岸や田んぼへの早期の避難が始まった。誘導や避難先の指示があった地区もある。
(2)家屋密集地でないところでは敷地内にとどまっていた例も多い。
(3)空襲警報後、すぐ照明弾で明るくなり、投弾が始まったとか、空襲警報を聞かなかったという人も多い。
(4)貨車をくぐる、火を越える、落下位置を察知するといった、とっさの判断でかろうじて避難できた。
2消火
(1)単体のテルミット・マグネシウム焼夷弾(M50 )は、砂袋・火はたき・濡れむしろで消火できた場合もあるが、手の届かないところに止まった場合や、延焼が始まった場合に消火が困難になる。
(2)被弾量、人手、水の量、空き地に接するかといった条件が、消火の成功を左右する。
(3)疎開者など、空襲体験者の経験が消火に活かされた例もある。
3情報不足による想定と違う状況
(1)訓練時の想定を越える高密度の投弾で、火炎が合流するなど消火不能になった。照明弾の明るさや焼夷弾の落下音の異様さが恐怖感を強めた。
(2)油脂弾(M69、M47)のナパーム剤が人体に付着して火傷や焼死につながった。川や海、芋のつるが燃えるなど、油脂弾と思われる証言が多い。
(3)高密度で投下された集束弾が散開するため、避難先の松林や田んぼ・川岸などでの直撃による負傷、死亡が多くなった。
(4)散開しなかった集束弾の落下や、大きな火柱が立つ油脂焼夷爆弾(M47 )の爆発で大きな被害が出た。
4任務に従った例
勤務先に向かった、警防団・医師等の活動に従事した、「御真影」を守って避難した、家族の安否不明のまま翌朝入隊したといった例もある。
5 救援
郊外や近隣町村からの親戚などの救援が、翌日早朝から行われた。医療団も派遣された。

【図1】平塚空襲の避難経路
【図1】平塚空襲の避難経路 ※凡例:●出発地 ▲避難先 ◎避難しなかった例



【参考文献】
 夏期特別展図録「市民が探る平塚空襲-65年目の検証」平塚市博物館 2010年

 

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