第1回 ハマニガナの復活−再び見られる砂浜の花 |
平塚市が誇る財産の一つは、なだらかな曲線を描く砂浜の海岸線が今も保たれていることでしょう。
特に、松林に接した砂浜には、春を彩る海岸植物が多く見られます。
しかし、川が運ぶ土砂が減ったために砂浜がやせてきたこと、海岸近くまで住宅地や道路が迫ってきたこと、さらには海岸を訪れる人の踏みつけの影響などが重なって、どの種類も減少気味なのは残念なことです。
かつては、一面に咲いていたハマヒルガオも現在では限られた範囲でしか見られなくなっています。 |
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第2回 金星の太陽面通過−地球と金星の約束の場所 |
来月、六月八日午後「金星の太陽面通過」という現象が起きます。
これは、金星が太陽と地球の間を通過し、太陽面を黒く丸い金星が横切って行くのが見られるものです。
前に起きたのは一八八二年のことですから、非常に珍しい現象です。 |
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第3回 湘南平の波食台(はしょくだい)−波に削られた平らな山頂 |
標高約百八十メートル。
平塚八景の一つ「湘南平」の展望台からは、天気が良い日には三百六十度の大パノラマが展望でき、多くの山々を見ることができます。
西方には、伊豆の天城山や、箱根山の噴火によって生まれた明星ケ岳・金時山などの「箱根外輪山」と呼ばれる山々がそびえています。
また、富士山の手前には、矢倉岳が見えます。
そして山々の連なりは、高度を増して丹沢の表尾根に続きます。 |
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第4回 学徒勤労動員の日記−火薬廠(かやくしょう)に動員された少年たち |
第二次大戦末期の昭和十九年、不足した労働力を補うため、全国の学生生徒を各地の軍需工場に動員する「学徒勤労動員」が実施されました。 |
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第5回 コハクオナジマイマイ−増えてきた西日本のカタツムリ |
土屋や吉沢の野道を歩いていると、中心部が鮮やかな黄色をしたカタツムリを見ることがあります。
この貝は、コハクオナジマイマイという名で、殻の直径は1cmくらい、田畑の周りの土手などで生活しており、カラムシの葉上で見られることが多いようです。
ときには、つる草によじ登り、ヤブカラシの花で蜜をなめていると思われる様子が観察されたこともあります。 |
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第6回 十五夜のお月見−十五夜今年は9月28日 |
九月二十八日は十五夜です。
平塚では縁側にススキや秋の草花、お団子やサトイモなどを供えてお月見をする風習があります。
また、昭和の初めころには、このお供えを近所の子どもたちがこっそり取ってしまっても良いことになっていたところもあったようです。
お月見にも地域差があり、たとえばお供えの種類やお団子の数など、ごくあたりまえと思っていることが、ほかの地域の話を聞くと異なるところがあり、意外な発見があるものです。
この機会に、ぜひ、いろいろな方とお月見の話をしてみてください。 |
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第7回 高度な技術の鍛冶集団−国府に付随した鍛冶(かじ)工房 |
「しばしも休まずつち打つ響き」と童謡『村の鍛冶屋』に歌われる風景。
そんな風景が昭和十年ころの平塚にもありました。
当時、平塚には七軒の鍛冶屋があったそうです。
さらに、およそ一千百年から一千三百年前の奈良・平安時代には、四之宮から中原にかけて金属や金属製品をつくる鍛冶集団がいたようです。 |
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第8回 祭囃子(まつりばやし)−甲高く響く太鼓の音 |
平塚の祭囃子は、一般的に太鼓の音が甲高く、けたたましいというのが特徴です。
締太鼓の皮を限界寸前まで強く張り、それを思い切りたたいて「鳴り」を競うのが伝統です。
これを喧嘩太鼓とか競争太鼓、あるいは太鼓の競り合いと称しています。 |
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第9回 七国峠・遠藤原−火砕流(かさいりゅう)がつくった大地 |
七国峠や遠藤原は、平塚八景に数えられる市内の代表的な景勝地です。
バス停「七国峠」から十分ほど南に歩いたところに、見晴らし台があり、平塚八景「七国峠・遠藤原」の碑が立っています。
このあたりからは、かつて、甲斐、駿河、伊豆、相模、安房、上総、武蔵の七つの国が一望できたといわれています。 |
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第10回 小正月−豊作を祈る大切な日 |
一月十五日前後の数日間を小正月といいます。
しきたりを大切にしているご家庭では、小正月にマユダマ団子の木を飾り、小豆粥(あずきがゆ)を召し上がるのではないでしょうか。 |
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第11回 原口遺跡と五領ヶ台貝塚−縄文遺跡の親子関係 |
広川の高台にある国指定史跡「五領ケ台貝塚」。
この遺跡は今から約五千年前、縄文時代中期初頭の貝塚です。
ここからは、貝殻のほか、この時代の基準資料となる土器「五領ケ台式土器」が出土しています。
しかし、この遺跡はまだ、小規模な調査しかされておらず、実態は解明されていません。特に、同時期の住居跡が発見されていないため、集落の姿が見えてきません。
ところが、約二Km離れた同じ丘陵上には、九軒の住居跡が発見された原口遺跡(現県農業総合研究所周辺)があります。
さて、二つの遺跡の関係からどのようなことが分かるのでしょうか。 |
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第12回 道中日記−西海地(さいかちむら)村栄次郎の参詣(さんけい)旅行 |
江戸時代は交通網の整備などにより、庶民の間に旅行が普及した時代でした。
庶民の旅行の多くは農閑期である旧暦の一~二月(現二~三月)にされ、寺社参詣がその中心でした。 |
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第13回 春祭り−昔ながらの心温まる祭り |
テンテレスクテンテンテケ。
日が暮れると、太鼓の音が響いてきませんか。
春祭りの真っ最中ですね。
神社の例大祭を春・夏・秋に分けると、平塚市は春祭りが最も多く、四月だけで全体の過半数を超えます。
今回は、これから楽しめる春祭りのいくつかを紹介しましょう。 |
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第14回 ソウシチョウ−森林にすむ色鮮やかな鳥 |
スズメより一回り大きめの体に五色の羽毛をまとったソウシチョウ(相思鳥)に出合うと、「こんな派手な鳥が野外にいるの?」とだれでもびっくりしてしまうでしょう。
見かけから想像できるように、この鳥は野鳥ではなく、中国原産の飼い鳥です。
しかし、飼われていたものが逃げ出して野生化し、今では本州から九州の広い範囲で見られ、数も非常に多くなってきています。 |
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第15回 学校日誌−空襲直後の第二国民学校 |
昭和二十年(一九四五年)七月十六日の平塚大空襲から今年で六十年になります。
博物館ではこの空襲の翌日から記された平塚市第二国民学校(現港小学校)の『学校日誌』を保管しています。
日誌は宿日直当番の教員が書いたもので、空襲直後の学校の様子がうかがえます。 |
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第16回 神輿(みこし)−由緒ある江戸時代の神輿 |
平塚市には江戸時代に製作されたことが確実な神輿が少なくとも七基あります。
七基とは、平塚春日神社、平塚八幡宮境内若宮八幡社、八幡八坂神社、四之宮前鳥神社、中原日枝神社、寺田縄日枝神社、入野八坂神社、土屋熊野神社の神輿です。 |
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第17回 セイコヤナギ−川に風格を添える大木 |
鈴川や花水川の土手に、ヤナギの大木があります。
この木は幹周りが1メートル以上もある落葉樹で、三月にほかの木に先駆けて、美しい黄緑色の新芽を吹かせます。
葉や若い枝に毛が生えていること、大木になることなどから、博物館ではコゴメヤナギではないかと考えてきたのですが、いくつかの疑問が生じ、ヤナギ類の専門家に調べていただいたところ、シダレヤナギの品種で「セイコヤナギ(西湖柳)」だということが分かりました。 |
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第18回 富士山と太陽−富士山頂に沈む夕日 |
「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉どおり、秋分の日前後は気候の変わり目で、太陽の高さ、昼の長さが日に日に低く、短く、変わっていきます。
日の入りの方位もそれまで真西よりも北よりだったのが真西近くに沈みます。
この時期は、平塚で太陽が富士山頂に沈むのが見られるときでもあります。 |
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第19回 平塚海岸の石ころ−石ころのふるさとを探る |
平塚海岸は砂浜海岸ですが、よく見ると、石ころが堆積(たいせき)しているところがあります。
さて、これらの石ころはどこから来たのでしょうか。 |
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第20回 人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)−顔が描かれた謎の土器 |
平塚の地に相模国府が置かれたことが明らかにされつつあります。
国府とは、奈良・平安時代の律令国家が地方を治めるために置いた役所です。
四之宮周辺の遺跡からはこの相模国府の所在を裏付ける様々な遺物が発見されています。
その一つが「人面墨書土器」です。 |
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第21回 破船報告書−難破船にみる須賀の船運 |
旧暦の十一月(現在の十二月ころ)は、江戸時代では年貢納入の時期でした。
相模川流域の村々の年貢は、相模川で須賀に集められ、須賀から江戸へ送られました。
川と海の結節点である須賀は重要な物流拠点でした。
しかし、当時の須賀の船運を知る史料は少なく、その実態は明らかではありません。
ただ、廻船が破船した際の報告書が関係する村にわずかに残されており、そこから須賀の船運の一端をうかがうことができます。 |
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第22回 カノープス−見るとめでたい老人星 |
一月中旬の夜十時ころ、「カノープス」という星が南の水平線近くに見えます。
星の明るさはマイナス〇・七等で、天空で一番明るいおおいぬ座のα星シリウスに次ぐ明るさです。 |
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第23回 達上池(たんじょういけ)−氾濫(はんらん)で生まれた三つの池 |
市民病院の南側、達上ケ丘公園に「達上池」があります。
この池は現在ヘルシーロードとなっている旧下田川の低地の出口に位置しています。
江戸時代の天保年間(一八三○年〜一八四三年)に徳川幕府により編纂(へんさん)された「新編相模国風土記稿」などの歴史資料から考えると、この付近にはかつて、三つの池があったようです。
現在の達上池はそのうちの一つで、「新池」と呼ばれ、文化五年(一八○八年)か文政十一年(一八二八年)の洪水で形成されたものと考えられます。 |
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第24回 塚越古墳−市内唯一の前方後円墳 |
塚越古墳は北金目字塚越にあり、北金目台地の東の先端、不動院の裏に位置しています。
これは市内に現存する最古の古墳で、唯一の前方後円墳です。 |
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第25回 スミレ−市街地に復活した春の花 |
スミレといえばタンポポやレンゲとともに、代表的な春の花として親しまれている野草です。 |
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第26回 家門凧(かもんだこ)−天高くあがれ、家門凧 |
凧あげというと、正月の風物詩と思う方が多いのではないでしょうか。
元々、正月に凧をあげるのは江戸の風習で、日本各地を見ると正月以外の季節にあげていた地方が多いのです。 |
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第27回 八幡の地形−川除稲荷(かわよけいなり)と鮫川池(さめがわいけ) |
東八幡三丁目の国道一二九号沿いに川除稲荷(かわよけいなり)があります。
この稲荷は天文九年(一五五〇年)の相模川の大洪水の後に建てられたと言い伝えられ、国道より数メートル高い位置にあります。
この辺りは、平塚の市街地を造っている砂丘列の東端にあたり、国道を隔てた西側にその続きの高まりをみることができます。
八幡から四之宮にかけては、このような砂丘の東縁に当たる場所に高さ二〜四メートル程の崖(がけ)が南北に連なっています。 |
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第28回 五領ヶ台貝塚−自然とともに生きた縄文人 |
広川にある縄文時代の遺跡「五領ケ台貝塚」からは、土器や石器、貝、獣骨などが多数見つかり、当時の生活の様子を垣間見ることができます。 |
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第29回 戦時下の日記−戦争の行く末を案じた『句日記』 |
戦時下の市民の様子を知るには、日記が参考になります。博物館では、当時新宿(現在の見附町付近)に住んでいた斯波武綱さん(一八九三~一九六七年)の『句日記』を保管しています。 |
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第30回 足下の未知の世界−都市に住む「ダニ」 |
わたしたちの生活のすぐそばにも、ひっそりと暮らしている生き物がいます。
写真は、平塚市内にある建物のタイルの継ぎ目に生えたコケと、その中から採集したダニです。 |
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第31回 星座ひろい−街にちりばめられた星 |
写真は、織女星(しょくじょせい)・牽牛星(けんぎゅうせい)を含む星座、こと座・わし座を描いた絵タイルです。
紅谷町まちかど広場の前、湘南スターモールと西口通り・公園通りが出会う交差点の歩道にあります。 |
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第32回 伊勢原断層−平塚北部を貫く活断層 |
平塚市には、今後も継続して活動することが予想される活断層がいくつかあることが分かっています。
その一つ「伊勢原断層」は、岡崎の台地(伊勢原台地)の西側の縁、大地と鈴川が流れる低地との境にあります。 |
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第33回 相模国府に集う人々−竪穴(たてあな)建物から見えるもの |
十一月十一日、中央公民館で開催したふるさと歴史シンポジウム「復元!古代都市平塚〜相模国府を探る〜」は大盛況でした。
このシンポジウムでは、四半世紀にわたる調査から相模国府が平塚にあったということがほぼ確定できました。 |
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第34回 セエトバレエ 目一つ小僧と道祖神 |
昨日、一月十四日は、市内各地で正月飾りを燃やす火が上がり、団子を焼く子どもたちでにぎわったことでしょう。
セエトバレエ、ドンドヤキ・ドンドンヤキ、ダンゴヤキと呼ばれる道祖神のお祭りです。
この火にあたると健康になり、団子を焼いて食べると風邪をひかないといわれます。
どうして火をたくと無病息災の御利益があるのでしょうか。 |
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第35回 立春−光の春、春一番 |
二月四日は二十四節気の一つ『立春』、十九日は『雨水』と暦の上では春です。 |
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第36回 最終回 幕末の村おこし−片岡村の報徳仕法(ほうとくしほう) |
薪(まき)を背負い読書する金次郎像で有名な二宮尊徳は、荒廃した村や領主財政の改革を指導した江戸時代後期の農政家です。
彼の改革方法は「報徳仕法」と呼ばれ、市内では当時の片岡村を中心に南金目村・真田村で実施されました。 |
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