※このページは、平塚市の広報紙『広報ひらつか』に当館が執筆連載した記事(文と写真)をアーカイブしています。
内容は断りのない限り掲載当時のものですのでご注意ください
第1回 家康ゆかりの茶碗(ちゃわん) |
1590(天正18)年7月、小田原を拠点とする戦国大名・北条氏が豊臣秀吉に敗れ、関東の戦国時代が終わりました。
その後、関東の大部分は徳川家康の領国に。
家康が江戸城に入ったのは同年8月1日と一般にいわれます。
ここに関東の近世が幕を開きました。 |
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第2回 アカウミガメの剝製 |
この剝製は、平成6年8月に龍城ケ丘の海岸に流れ着いたアカウミガメの死体から作製しました。
平成10年の展示替えで博物館の展示室に登場しました。
現在、2階常設展示室で公開しています。 |
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第3回 上ノ入(かみのいり)遺跡の敷石住居 |
文化公園の駐車場から博物館正面入り口へ向かうスロープの脇に、いくつかの屋外展示があります。
その中の一つ、縄文時代の敷石住居を紹介します。 |
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第4回 M69油脂焼夷弾の弾筒 |
1945(昭和20)年7月16日深夜、平塚は米軍のB29爆撃機133機による空襲を受けました。 |
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第5回 地球外生命へのヒント |
生命とは、いったい何でしょうか。
生きているとはどういうことなのでしょうか。
私たちは、身の回りにあるものを生物と非生物に簡単に分けることができます。
ところが、「生物とは何か。
生物の定義とは」と聞かれると、すんなりと答えられる人は少ないのではないでしょうか。 |
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第6回 タブノキの埋もれ木 |
博物館の受付前にある展示「博物館にようこそ」の中に、クスノキの仲間の常緑高木「タブノキ」の埋もれ木があります(写真①)。
これは昭和39(1964)年の平塚駅西側の中央地下道工事のとき、深さ5.1メートルの砂層から見つかったものの一部です。
長さは4メートルほどありました(写真②)。
鑑定したところ、樹齢は300年ほどで、放射性炭素で年代を測定すると、約2000年前に埋没したことが分かりました。
このタブノキは約2000年前の海岸の漂着物で、当時、東海道線付近に海岸線があったことを物語っています。
これほど大きな流木は、普段打ち上げられることはありません。
台風や地震などの大きな自然現象により土石流や土砂崩れが起こって、相模川あるいは金目川を経て、海へ運ばれたと考えられます。 |
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第7回 海底火山の枕状溶岩 |
「枕状溶岩」とは、横断面が枕を積み重ねたように見える溶岩です(写真❶)。
海底火山から玄武岩溶岩が海中に流れ出た際につくられます。
博物館の2階展示室には、山北町玄倉(くろくら)から採取した枕状溶岩を展示しています(写真❷)。
断面を見ると、三つの「枕」の周辺部は海水と接触したため結晶せずガラス質となり、黒ずんでいます。
丹沢山地には、こうした枕状溶岩が早戸川、布川、玄倉川などの谷に何カ所も認められます。
かつて丹沢が海底火山の集まりであったことを物語っています。
丹沢の枕状溶岩の年代は1700万~1400万年前であることが明らかになっています。
しかし、現在の場所に海底火山があったわけではありません。
当時、丹沢は三宅島など伊豆諸島の一部の火山島として生まれたと考えられます。 |
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第8回 高根の双体道祖神 |
高根の上高根にまつられている道祖神には、「元禄(げんろく)8年乙亥(きのとい)天12月吉日」の紀年銘が彫られています。
西暦にすると1695年で、市内に280基現存する道祖神の中で、紀年銘の最も古いものです。 |
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第9回 オデッサ隕石(いんせき) |
この石は、今から5万年ほど前、現在のアメリカ合衆国テキサス州オデッサ市に落ちた隕石です。
落下時の衝撃で、幅180メートルにも及ぶ巨大なクレーターが生まれました。
見た目はなんの変哲もない鉄の塊ですが、その断面をみると網目状の模様が見えます。
鉄やニッケルを多く含む鉄隕石でよく見られる、「ウィドマンシュテッテン構造」という結晶構造が作り出した模様です。 |
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第10回 真土大塚山古墳の出土品 |
真土大塚山古墳は、海岸線から高地と低地が繰り返される市域砂州砂丘列の最も高い場所に築かれていました。
現在の真土大塚山公園の南側にあたります。
相模国域で唯一、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を出土した古墳として極めて重要な遺跡ですが、今はその姿を見ることはできません。 |
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第11回 炭火の置きごたつ |
やぐら式電気こたつが発売されたのは、昭和32年です。
ちょうど、平塚市が金目村と合併して現在の市域ができあがった年に当たります。 |
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第12回 大堤決壊図(おおつづみけっかいず) |
市内を流れる金目川は川底が高いため農業用水に使いやすい反面、洪水が発生しやすく、記録に残るだけでも近世を通して10年に1度の割合で洪水を起こしました。 |
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第13回 火山からの噴出物 |
博物館の2階展示室に富士火山の山麓で収集した紡錘(ぼうすい)状火山弾が展示してあります(写真①)。
火山の噴火により放出され、特定の形状を示したものを火山弾といいます。
写真①は飛行中に回転して紡錘状になりました。 |
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第14回 黒点の観察スケッチ |
太陽の表面に黒いシミのように見える黒点。
強い磁場が働き、内部からの熱の移動が妨げられ、周囲に比べて温度が低いために黒く見えます。
黒点の大きさや形状、数、太陽表面での出現位置は時々刻々と変わります。
太陽の自転に合わせて動いていくのはもちろんのこと、太陽の活動にも大きな影響を受けます。 |
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第15回 有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器 |
市博物館の考古分野で最も有名な資料の一つが、この有孔鍔付土器(左写真)です。
市内岡崎にある上ノ入(かみのいり)遺跡で昭和51年に発掘されました。
大きさは口径が27cm、高さは約43cmもあり、縄文時代中期(4500年前~3000年前)の土器です。
聞き慣れない名前は、縁の直下にぐるりと貼り付けられた鍔状の装飾と、それに沿って開けられた穴に由来します。 |
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第16回 紙芝居 おもいでのなつ |
1945(昭和20)年7月16日深夜、平塚市は米軍による空襲を受けました。
空襲は100分間に及び、人々は頭上から降り注ぐ焼夷弾の雨にさらされました。 |
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第17回 礎の碑 |
昭和20(1945)年7月16日深夜の空襲で、平塚市は灰じんに帰しました。
旧市内の学校も国民学校4校のうち3校と市立高等女学校・農業学校・商業学校・工業学校などが焼失し、子どもたちは他校の間借りや青空教室を余儀なくされました。 |
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第18回 SDSSアルミプレート |
3階展示室にある、アルミ製の丸いプレート……。
直径80cmで厚さ3mm、重さは4.5Kgです。
近付いて見ると、たくさんの穴が開いています。
これはいったい何に使われたものでしょうか。 |
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第19回 平塚にいたナウマンゾウ |
ナウマンゾウの名はドイツ人エドモント・ナウマンが1881年に横須賀で発見したことに由来しています。 |
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第20回 湘南にいたジョーズ |
大磯町の高麗山や西小磯海岸には、およそ600万年前の海に堆積した地層である大磯層が露出しています。
特に西小磯海岸の大磯層の礫岩(れきがん)層は、貝化石、サンゴ化石、脊椎動物化石などを多く含んでいます(写真1)。
貝化石を見ると、外洋に面した浅海に生息する貝と内湾に生息する貝が混在して産出します。
また脊椎動物化石も、海のクジラや魚類から、陸のサイやイノシシまでの多様な環境を示唆する生物化石が産出します。
このことから、この化石を含む礫岩層は浅海からの流れ込みによって堆積したと推定されます。 |
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第21回 鎌倉時代の鐙(あぶみ) |
下の写真は鉄製の舌長鐙(したながあぶみ)です。
鐙は乗馬の際に馬に装着する馬具の一つで、乗り手の足を乗せます。
高さ25cm、長さはおよそ35cmあります。
昭和15年ごろ、相模川に架かる馬入鉄橋の下流付近で砂利採取船による作業中に発見されました。 |
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第22回 御祓大麻(おはらいおおぬさ) |
写真の箱札は厚さおよそ10cmあり、 |
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第23回 ヤイシ |
「湯河原驛(えき)の海の見えるホームで電車を待つて居ると、五十近くのいゝかつぷくの親爺(おやじ)さんが、二つの風呂敷包みを下げて上つて來(き)た。
さまで大きな包みでも無いのに、ふう〳〵といつて汗を拭いて居る。
やがて包みを解くのでそつと覗(のぞ)いて見ると、全部が三寸ばかりの平めな石であつた。
是(これ)を細縄で斯(こ)うい風に結はへて、地曳網(じびきあみ)の底に一つづゝ附(つ)けるのだといふ。
あんまり丸つこいと轉(ころ)がるからいけない。
(中略)この親方は平塚の網主さんであつた。
(中略)漁師は皆ヤイシと謂つて居ますと答へる」 |
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第24回 中原酢の酢甕(すがめ) |
江戸時代、中原宿(平塚市御殿)では「中原酢」と呼ばれる徳川将軍家御用酢を醸造していました。
写真は中原酢の醸造に用いられたと伝えられる常滑焼(とこなめやき)の酢甕で、16世紀ごろの作製と考えられています。 |
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第25回 金目川修復事歴書上 |
左の写真は金目川修復事歴書上で、金目川にある堤防の修復事業の履歴を書き上げた古文書です。 |
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第26回 プラネタリウム投影機 |
皆さんは「プラネタリウムを見に行く」という表現をよく使っていると思います。
この場合、皆さんが頭の中に思い浮かべているのはプラネタリウムが映した「星空」ですよね。
ですが本来プラネタリウムというのは、星を映し出す機械そのものです。
市博物館のプラネタリウムは現在3代目。
過去の機械の一部を3階に展示しています。
それらを見比べると、プラネタリウムの歴史を知ることができます。 |
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第27回 深海の花畑 |
博物館2階展示室の角にある小部屋が、深い海の底を思わせるジオラマ仕立てになっているのを知っていますか(写真①)。
そこに展示されているのは、深海に生息した特殊な生物たち、化学合成群集の化石です。 |
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第28回 コメアゲザル |
写真のコメアゲザルは、研いだ米の水切りをする時に使われていました。
米粒が抜けたり詰まったりしないように細いヒゴでしっかりと編まれています。
高さ17cm・直径31cmの大きさの三升ザルです。
農家などでは現在も年末の餅つきの際に、オヤザルといって二斗(約36リットル)が入る大きなザルをもち米の水切りに使用しています。 |
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第29回 宿内軒別畳数坪数書上帳 |
この資料は1862(文久2)年11月に、江戸幕府14代将軍徳川家茂(いえもち)の江戸から京都への上洛(じょうらく)の準備・調査の一環として作成されました。
徳川家茂は1863(文久3)年3月、三代将軍家光以来229年ぶりに将軍として上洛しました。
上洛は公武合体推進と幕府権力の回復が目的でしたが、結局、意に反して攘夷(じょうい)決行を約束させられてしまいました。 |
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第30回 穴が開いた土器 |
2階常設展「まつりの世界」に展示しているつぼをご紹介しましょう。
左の写真の3点のつぼは、いずれも古墳時代初頭(約1700年前)の土師器(はじき)です。
右から権現堂遺跡(岡崎)、笹本遺跡(高根)、南原B遺跡(南原)と、出土遺跡はバラバラですが、ある共通の特徴を持っています。
それは、底に大きな穴が開いているということです。 |
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第31回 宙(そら)を巡る流れ星 |
皆さんは流れ星を見たことがありますか?
左の写真は博物館の屋上に設置している、高感度ビデオカメラを使って撮影した流れ星です。
宇宙のどこからともなく現れて、視野の中にふっと一筋の細い光を残す現象を、流星と呼びます。
光は瞬く間に消え去ってしまい、その後は、まるで今の出来事が幻であったかのように、空はすぐに静けさを取り戻します。 |
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第32回 ペンシルロケット |
写真は、東京大学の糸川英夫教授が昭和30年に初めて製作した、ペンシルロケットの断面模型です。
ジュラルミン製で全長わずか23cm、重さ200グラムの小さなロケットです。
飛ぶために必要な推進薬も重さ8.4グラムと、とても小さいものでした。
この推進薬の開発には、大正8年から昭和20年まで平塚にあった、海軍火薬廠(かやくしょう)で培われた技術が利用されています。 |
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第33回 県の石 |
県の花、県の鳥などと同じように、県の石があるのを知っていますか。
今年5月、日本地質学会は県の石として、各県で産出・発見された化石・岩石・鉱物を発表しました。
地元ならではの化石や石を通して、大地の成り立ちに目を向けてもらいたいという願いが込められています。
神奈川県の化石・岩石・鉱物として次の三つが選ばれました。 |
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第34回 長寿の星 カノープス |
冬は星空がきらびやかな季節。最も明るい星の仲間である1等星が7つも頭上に輝き、冬の大三角や冬のダイヤモンドを形づくっています。 |
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第35回 縄文のタイ |
はるか縄文の昔から、人々が魚を保存食として加工していたことを知っていますか。
縄文時代にも私たちになじみのある、クロダイが食べられていました。 |
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第36回 最終回 御殿飾りのお雛(ひな)さま |
3月3日の桃の節句を祝い飾られるひな人形は、時代とともに、姿や種類が移り変わってきました。
明治の内裏びなは大きく、大正・昭和初期は御殿飾りの流行で人形は小型化し、昭和30年代からは大きな七段飾りが人気を集めました。
写真は、大正3年に初節句を迎えた方の御殿飾りのひな人形で、博物館で所蔵している、8点の御殿飾りの中で、最も古いものです。 |
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平塚市博物館 254-0041 神奈川県 平塚市 浅間町12-41
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