わたしたちは「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館です

17 昭和のくらし
17 昭和のくらし



●昭和のくらし
 昭和という年号は国際協調と世界の恒久平和を願い制定されたものです。しかし、現実は国際的孤立と戦争への道を歩むものでした。
 博物館の「平塚の空襲と戦災を記録する会」では、1989年から昭和期の平塚について、特に戦時下の平塚と平塚大空襲に的を絞って調査を続けてきました。その結果、当時の平塚は第二海軍火薬廠などの大規模な軍需工場をはじめ、中小の軍需工場が多く存在した、県下でも有数の軍需工業都市であったことがわかりました。
  平塚市は、昭和20年(1945)7月16日から17日の未明にかけ、米軍のB29爆撃機132 機による大規模攻撃を受けます。このとき、B29から投下された焼夷弾は41万本を超えました
 ここでは戦時下の平塚と平塚空襲の実像を、市域に残る戦中・戦後の資料から紹介して、平和の尊さや平塚の近現代史を明らかにしています。


出征国旗


防空頭巾


テルミット・マグネシウム焼夷弾

●軍都への道
 平塚への軍需工場の進出は、大正8年(1919)の海軍火薬廠の開設に始まります。その後大正12年には、海軍技術研究所研究部が開設。そして、戦争の激化にともない昭和12年(1937)に日本航空工業(日本国際航空工業)、同16年に横須賀海軍工廠造兵部工場、同17年に横須賀海軍工廠造機部工場と第二海軍航空廠が開設されました。 また、民間軍需工場には、二荒航空工業や近江航空工業もあり、海軍兵器工場や航空技術開発の研究機関と工場が集中する都市に発展しました。

火薬廠正門

●戦争への道と戦争協力
 昭和6年(1931)、日本は中国東北部(満州)に得た権益の維持拡大を狙った侵略戦争を開始します。そして、同12年の日中全面戦争、同16年の太平洋戦争と拡大するなかで国家的危難を一致団結して乗り切るよう国民に強制します。同13年「国家総動員法」が制定され、全て軍需優先となりました。その結果、生活用品配給制や切符制、国民学校の発足、金属回収、勤労報国、臨時増税、食糧増産、防空体制強化などの諸施策が実施され、戦争に協力させられました。

学徒勤労動員の日記

●平塚大空襲
 平塚市は、昭和20年7月16日〜17日の未明にかけ、アメリカ軍B29爆撃機132機による大規模な攻撃を受けます。これが「平塚大空襲」です。この空襲により、平塚市の60%近くが破壊され、362名以上の尊い人命が奪われました。また、空襲による被害は、軍需工場より市街地に多く、罹災戸数7,678戸、罹災者数35,336人を数えました(神奈川県警察調べ)。

平塚空襲被災状況


高温で溶けた硬貨


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