12 相模の家



●平塚の古民家
 平塚市の古民家調査によれば、江戸時代に建てられた民家には、次のような特色が指摘できます。①民家様式はほぼ均一で、間口八間(一間=約1.8m)、奥行き三間半〜四間の二八〜三二坪の家が標準的だった。②間取りは広間型三間取りといい、土間の他にザシキ・オク・ヘヤと呼ばれる3部屋をもち、明治後期に養蚕を行うようになってザシキを二分して四間取りとなった。二分された際、裏側の部屋はチャノマと呼ばれた。③棟の形式は直線的な直屋とL字型の曲屋があったが、直屋が一般的で、曲屋は後の改造と考えられるのが大半である。④土間とザシキ境の柱の省略が比較的遅く、一間ごとに柱が立っている。土間境の柱にはケヤキが使われ、土間周りにはチョウナ仕上げの柱もある。⑤ザシキは板敷で、イロリや神棚、押板と呼ぶ床の間状の施しがある。
 この他、寄棟茅葺き屋根であること、柱は礎石立てであること、土間が広いこと、土壁であること、屋根地に竹を多用していることなどが古民家の特色として挙げられます。

●復元された民家
 展示室に復元されている民家は、広川の窪田家旧宅の一部を移築したものです。博物館建設準備中に家を新築することになり、旧宅を寄贈してもらいました。移築したのは、デエドコロ(土間)とザシキの一部です。ザシキは本来は間口が三間ありましたが、展示では二間に切りつめて復元しています。また、ザシキの裏手は一間分が土間になっていましたが、展示では板の間に変更しています。土間をデエドコロと呼ぶのは市西部にみられる傾向で、市域では一般にニワと呼びます。ニワは、炊事場、貯蔵場、作業場として使用しました。
 本来はザシキの右手にさらに四部屋あった五間取りの家で、間口が十間半(約19m)、奥行きが四間半(約8m)あり、四七坪ほどの大きな家でした。ナンドとナカノマの二部屋は一般の農家にはついていませんでした。ザシキには式台と呼ぶ正式な玄関があり、格式の高い家であったことがわかります。窪田家は江戸時代には村役人を務めたこともある家です。

 式台玄関から出入りするのは特別な客で、ふだんは「ニワの入り口」とか「とんぼぐち」と呼ばれる入口から出入りしました。出入り口には大戸という重たい戸が入り、夜は大戸を閉めて小さなくぐり戸から出入りしました。裏口は、庭の井戸や風呂場へ通じる出入り口で、「勝手口」とか「せど口」と呼ばれています。 広川の言い伝えによると、窪田家の天保年間生まれの人が、当時土屋琵琶にあった家の部材を金目川へ流して運び、建てた家といいます。窪田家として建てられたのは江戸末期〜明治初期ということになりますが、使用している部材自体はもっと古いことになります。

屋根地のしくみ

●草葺き屋根
 昭和30年代後半にガスが普及すると、家の中で薪や藁を燃やすことはなくなりましたが、それ以前はどの家でも土間に竈を置いて煮炊きをしていました。平塚では竈のことをヘッツイと呼び、石や煉瓦を組み、上から土を塗って築きました。戦後はコンクリートなどで造った簡易竈も普及しました。燃料には、大麦のカラ、稲藁、サツマイモや落花生のカラ、ソダと呼ぶ枯れ枝などを用いました。
 ヘッツイの穴に釜をかけてご飯を炊いたり、お湯を沸かしたりしました。昔の鉄釜が大きいのは、家族の人数が多く、仕事が重労働であり、副食物が少なかったために、米のご飯をたくさん食べたからです。ただし米だけのご飯を食べられるのはモノ日だけで、普段は麦飯といって大麦を混ぜて炊いたご飯を食べました。また、釜の上にはセエロやハヤブカシと呼ぶ蒸し器を積み、餅米を蒸したり、赤飯を炊いたりしました。

ヘッツイ

●クドとイロリ
 土間の奧には、壁の途中まで厚く土を塗った炉があります。平塚では炉をクドと呼び、上から自在鈎をさげ、鈎に鍋を吊して煮炊きをしました。 ザシキの板の間に切ってあるのがイロリです。平塚ではユルリとかヒンナカと呼ぶのが古い言い方です。形は正方形が一般的ですが、窪田家の場合は長方形になっています。マッコと呼ばれる周りの縁も、もっと太い角材を用いるのが普通です。イロリでは薪やソダを燃やして暖房とし、鍋を自在鈎に吊して煮炊きをしました。家の中で火を焚くことは、物を乾燥させ、屋根を長持ちさせる効果もありました。夜は残り火に灰をかけておき、翌朝吹いて再び火をおこし、火種を絶やさないようにしました。

イロリ

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