わたしたちは「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館です

相模川下流部の変遷

平塚の地形地質 (4.平塚・平野の地形)

相模川下流部の変遷

最終更新 1998年5月

時代の異なる古い地形図を重ね合わせてみると、相模川は図のように流路を変えてきたことがわかります。自然のままの流路ではかつてはかなり蛇行していましたが、人為的に堤防を作り、河道を直線的になおした結果現在の河道となりました。  河口部での河道の変化ははげしく、明治期には茅ヶ崎市の柳島の下水処理場付近に河口がありました。柳島小学校付近はまさに河口の中州のような場所でした。河口部には両岸から砂州が長く延びていました。  昭和期になって直線的な河道に改められ、ほぼ現在の位置を流れるようになりました。昭和22年の地形図では河口には東岸から砂州が延び、平塚側からの砂州は消失しています。この時期の海岸線は明治期より150〜250m前進しています。明治24年と明治41年ではほとんど変化はありません。明治末〜昭和前期にかけての海岸線の前進は、後で述べる大正12年(1923)の関東地震による隆起が原因ではないかと推測されます。 相模川河口部の地形は台風や暴風時に大きく変わってしまいます。昭和期以降は茅ヶ崎側から砂州が張り出し、その北側が泥質な堆積物からなる干潟となっていることは、基本的には変わりません。しかし、砂州の位置や方向は時代毎に大きく異なっています。昭和55年の海岸線を昭和29年と比べると茅ヶ崎側で100〜110m、平塚側で40〜50m後退しています。これは相模川による土砂の流出・運搬が減少しているためと思われます。

河口の変遷(神奈川県撮影空中写真より作成)

相模川の変遷
(明治24・41・42年・昭和22年地形図  藤沢・平塚より作成)

昭和51年9月の河口

平成2年9月の河口


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