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花水川下流の地形

平塚の地形地質 (4.平塚・平野の地形)

花水川下流の地形

最終更新 1998年5月

東海道以南の花水川は、古花水の地名に残るように、江戸元禄期(1700)頃まで平塚市側の砂丘を大きくえぐって曲流していました。黒部丘JR跨線橋の北側薬師院墓地(高塚場)は、低地より一段高くその名残を残しています。撫子原も砂州・砂丘列を削った、花水川の低地にあたります。花水川右岸には唐ヶ原として平塚市が入り込んでいます。この大磯町との境も江戸期の流路を示しており、旧河道が認められます。NCR大磯工場付近は丸山と呼ばれ、中州状の自然堤防とそれを円形に取り囲んで旧河道が分布しています。かつての花水川は、ここで大きく、曲流していたことが推測できます。  高麗山の裾には旧河道より一段と高い標高10m程の平坦地が続いています。これは、かつての波食台が段丘化したものとされています。花水橋に近い善福寺には、この段丘崖に横穴古墳が知られています。台地や丘陵ではなく、平野に作られた横穴墓は、珍しいものといえます。  また、東町や国道134号線より南には東西方向に砂丘列が認められます。東町のものは平塚側の花水台から袖ヶ浜にかけての砂丘列に続くものと考えられます。大磯高校はこの2列の砂丘間の凹地にあたります。浅間山南側から流れる三沢川は、山王町で流路を東へ変え、海岸沿いの砂丘列に沿ってこの砂丘間凹地を流れて花水川へ注いでいます。大磯高校東側には東町の砂丘列を刻んでかつての花水川が流れ、河口部であったと思われます。昭和の初めには松下池と呼ばれる池があり、それを物語っています。

空からみた花水川河口

花水川下流域の地形(1/10000大磯町・平塚市地形図より作図)

明治以降の花水川の変遷(明治 24・41年・昭和22年地形図による)

昭和22年地形図にみられる松下池(国土地理院1/25000平塚を使用)


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