わたしたちは「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館です

ちょっと海まで 平塚市博物館公式ページ

ちょっと海まで
平成19年4月15日〜平成21年3月15日

 「広報ひらつか」博物館コラムへ

 第1回  ハマヒルガオ−初夏の浜辺にピンクのじゅうたん
 第2回  オオミズナギドリ−海鳥をウォッチング

 第3回  アカウミガメ−期待したい、産卵の復活
 第4回  須賀の夏祭り−暑い夏がますます熱い
 第5回  浜施餓鬼−海を見守るお阿弥陀様

 第6回  キョウジョシギ−顔の模様がトレードマーク
 第7回  万祝−大漁の祝い着
 第8回  ビーチコーミング−自分だけの宝探し
 第9回  クロマツ林−海風からまちを守る緑の壁
 第10回 カモメ−冬こそカモメの季節
 第11回 海岸の砂−砂はどこから?
 第12回 環境の変化−漂着物から自然を考える
 第13回 ハマエンドウ−花が支える虫のくらし
 第14回 平塚砂丘−夕映えの風景
 第15回 漂着物−遠き島より流れ寄るロマン
 第16回 カツオ漁−須賀の鰹一本釣り
 第17回 砂丘−かつての海岸を物語るもの
 第18回 魚屋さん−須賀のボテイ
 第19回 記念碑−花水河口の四十五佳選の碑
 第20回 浦境−江戸時代の海の境界
 第21回 貝塚−縄文の海に思いをはせて
 第22回 日の出−初日の出に願を掛けて
 第23回 浮島現象−寒い朝に見られる蜃気楼
 
第24回 海へ出かけよう−平塚沖の波浪等観測塔

第1回 ハマヒルガオ−初夏の浜辺にピンクのじゅうたん
平塚海岸でのハマヒルガオの花期は4月〜6月
 湘南の海を代表する植物といえば、ハマヒルガオをあげることができるでしょう。かつて、平塚の海岸ではあちこちに大きな群落があり、ピンクのじゅうたんを敷き詰めたような光景が見られたものです。今でも、ハマヒルガオは点々と花をつけていますが、大規模な群生はほとんど見られなくなっています。
ハマヒルガオは、空き地や道端の草むらに生えるヒルガオにごく近い種類で、花の形や大きさはそっくりです。しかし、葉の様子は大きく違っており、ハマヒルガオでは形が丸く、また厚みがあって表面がつやつやしています。潮風が吹きつける海岸は、植物にとって、たいへん厳しい環境です。厚くて光沢のある葉は、その潮風に耐えるために必要な特徴なのです。
ハマヒルガオのもう一つの特徴は、その長い根にあります。砂浜では風で砂が動くということも、植物にとっては暮らしにくい条件です。ハマヒルガオの長い根は、深い地中から真水を吸い上げるのに役立つと同時に、動く砂に抗して体を支える役目を果たしているのです。砂浜に生える植物には、ほかにハマエンドウ・ハマニガナ・ハマボウフウなどの草、ハマゴウのような低木などがあります。住宅地や道路が海に迫ってくるにつれ、これらの植物が生える余地がなくなり、どの種類も少なくなってしまいました。(平成19年4月15日)
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第2回 オオミズナギドリ−海鳥ウォッチング
オオミズナギドリとカマイルカ(平塚沖)
 平塚海岸に立つと、左手には江の島から三浦半島、右手には伊豆半島、そして沖合には伊豆大島が見えます。これらに囲まれた相模湾には、どんな生きものが暮らしているのか、思い浮かべたことがありますか。
 春から秋にかけて、相模湾の海上の主役となるのは、オオミズナギドリという海鳥です。長い翼を広げ、海面低く、風を巧みにいかして飛ぶこの鳥は、伊豆七島の御蔵島で数万羽が繁殖しており、その一部が相模湾までえさをとりにやってきます。イワシなどの小魚がカツオなどの大型の魚に追われて海面に集まってくると、それを見つけたオオミズナギドリは現場に急行し水面にくちばしを入れて小魚を捕らえます。そうした場所にはときにはイルカがやってくることもあって、海上は大騒ぎになります。写真に写っているのはカマイルカという種類です。
 オオミズナギドリが群れている場所は「鳥山」と呼ばれ、かつての漁師さんはこれを目印にカツオなどを釣りあげていました。漁師さんにとって、オオミズナギドリは漁場を教えてくれる大切な存在だったのです。
 オオミズナギドリは、岸に近づくことはめったにありませんが、双眼鏡で水平線を注意深く観察すると、岸からでも波を描いて飛んでいく姿を見つけることができるでしょう。5月ごろには、オーストラリアからハシボソミズナギドリという小型の種類も渡ってきます。この種類の若鳥の中には、長い旅の果てに死んでしまうものもあります。(平成19年5月15日)
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第3回 アカウミガメ−期待したい、産卵の復活
 上の写真はアカウミガメの子ガメです。ちょっとピンボケで、よい写真とはいえませんが、平塚海岸で生まれたアカウミガメの唯一の写真なので、非常に貴重なものです。撮影は、1996年10月11日。虹ケ浜の海岸を散歩していた市民の方が、砂浜を十数匹の子ガメが歩いているのに気づきました。
 写真は、連絡を受けた博物館の職員が撮影したものです。戦後間もないころまでは、相模湾でのアカウミガメの上陸産卵は決して珍しいことではなかったそうです。しかし、その後海沿いの道路が延びたこと、車が増えそのライトや道路の照明が砂浜にまで届くようになったこと、海岸がにぎやかになったこと、一部の海岸では車が砂浜に入るようになったことなどいろいろな要因が重なって、産卵はどんどん減っていきました。しかし、まったくなくなってしまったわけではなく、今でも年に1回くらいは、相模湾のどこかで産卵が記録されています。
 また、死体が海岸に打ち上がることは、年に十数回は記録されていて、相模湾の沖合いまで相当数のアカウミガメが回遊してきているのは確かなことです。下の写真は2006年5月11日に袖ケ浜の海岸に打ち上げられたものです。ウミガメが上陸して産卵するには、人工的な光が当たらない静かな砂浜が必要です。海岸線のどこかに、そういう条件の場所を整え、将来、定期的な産卵が復活することを期待したいものです。(平成19年6月15日)
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第4回 須賀の夏祭り−暑い夏がますます熱い
「浜降祭」。須賀の町内を練り歩いてきた神輿が海へ入る。
 須賀の鎮守、三嶋神社の夏祭りが7月21日(土)・22日(日)に行われます。
21日の宵宮は、代官町と夕陽ケ丘を神輿が渡御します。神楽殿では、太鼓保存会の子どもたちが、二宮町中里から継承した太鼓を叩きます。どっしりと力強い太鼓です。22日の本宮は、朝から須賀北町→横町→仲町→南町→西町の順に神輿が渡御します。御酒所で唄われる須賀甚句は、明治時代に伊豆の下田・大島方面から伝えられたといわれます。当初は宴席で唄う歌だったのが、のちに神輿渡御に取り入れられました。現在、市内各地のお祭りで唄われている甚句は、元は須賀、茅ヶ崎市南湖、大磯といった港町ではぐくまれた海の歌なのです。
 お祭りは、須賀西町の御酒所で六町の町内神輿が加わって国道129号先の浜へ降り、午後4時30分ころに浜降り祭が行われます。神輿が海へ入ることで海水による禊ぎがなされ、海の彼方から “幸い”がもたらされるのだと思います。
 魚市場で大神輿が加わり、大中小計9基の神輿がそろって新地通りを渡御します。通りは大勢の担ぎ手と見物人であふれかえり、午後8時の宮入が近づくにつれ、熱気は増すばかりです。
 お祭りには、日常生活の“ガス抜き”という効果があります。たまには羽目を外して(しかし、ほどほどに)お祭り騒ぎをしなきゃあ。そんな、とことん楽しめ、元気をもらえるのが、須賀のお祭りです。(平成19年7月15日)
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第5回 浜施餓鬼−海を見守るお阿弥陀様
 高浜台の住宅地の一角に、お阿弥陀さまと呼ばれる大きな阿弥陀如来の石像が鎮座しています。近世の石仏としては群を抜く大きさで、壇を含めた高さは4メートルを超えます。弘法大師作という伝説がありますが、銘文には、江戸時代の宝永年中(1740年〜1711年)に覚誉上人が建立し、後に蓮台と石壇が砂に埋もれたので、弘化2年(1845年)に建て直したとあります。元々は相模川河口近くの松林にあったものを、現在地に移して建て直したといわれています。
 お阿弥陀さまの建つ場所には、「海上没七人之霊」、「水陸幽顕法界含識」などと刻まれた、海難者供養の石塔がいくつか建てられています。かつて、ここは身元不明の水死者を葬る場所であり、戦後、区画整理をした際に、人骨が30体分以上も出土したそうです。お阿弥陀さまは、このような不幸にして海で命を落とした人を供養し、台座に大きく刻まれているように「海上安全」を願って建てられた石仏です。今では周囲が宅地化しましたが、昔は海を見守るように浜に鎮座していました。
 毎月16日には漁業関係の主婦の方々などが集まり、念仏と御詠歌があげられます。そして、毎年8月16日は「浜施餓鬼」といって、海宝寺の僧侶が中心になり、午後5時ごろから海難者の供養が行われます。
 建立後300年を経た現在も、お阿弥陀さまの信仰は生き続けているのです。(平成19年8月15日)
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第6回 キョウジョシギ−顔の模様がトレードマーク
 1年の間のごく短い期間だけ姿を見せる種類が少なくありません。長距離を旅する渡り鳥の中、繁殖地と越冬地を往復する途中にだけ、日本列島に立ち寄っていくものがあるからです。
 海岸でよく見られるシギチドリ類という水鳥の中には、そうした種類が特に多く見られます。かつて相模川の河口には、湘南大橋の南側に小規模な干潟がありました。この干潟では、4月から5月にかけての春の渡りと、8月から9月にかけての秋の渡りの時期には、10種類を超すシギチドリ類が観察されることも少なくありませんでした。
 今では、台風の増水などによる砂州の移動が原因で、干潟の環境はほとんど失われてしまいましたが、砂浜や防波堤などを丹念に探すと、数は少ないながらシギチドリ類の姿が発見できます。
 写真は、今でも平塚海岸で見かける機会の多い鳥で、キョウジョシギ(京女鴫)といいます。この鳥は、海岸を歩きながら、太いくちばしを使って石をひっくり返し、その下に潜む小動物を捕らえるのを得意としています。また、浜に打ち上げられた貝の身を食べている姿もよく見かけます。
 見た目の特徴は、独特の顔の模様にあり、くま取りをしているようだと形容されます。「ゲレッ、ゲレッ」と聞こえる鳴き声は決して美声とはいえませんが、生き物の気配に満ちたにぎやかな海辺を感じさせてくれるものです。(平成19年9月15日)
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第7回 万祝−大漁の祝い着
平塚市博物館所蔵の万祝(写真提供 神奈川県立歴史博物館)
 万祝(まいわい)と呼ばれる、漁師の祝い着があります。昭和30年ころまで、ブリの大謀網(大型の定置網)やカツオ釣りなどで、相当な大漁に恵まれたとき、網元や船主が千葉県の紺屋(染物屋)へ注文に出し、船方へ配られた着物です。
 反物で渡され、各家で着物に仕立てられました。旧須賀村では、大漁祝いの祝宴を「オキアガリ」といい、船方たちはこの万祝を着て集まりました。逆に、不漁の日が続くと、「マナオシ」といって、船のおはらいをして一杯飲んだといいます。万祝やマナオシの「マン」や「マ」は、「間」を表します。「間が悪い」などというように、「間」とは、タイミングや運の意味で使われます。大漁祝いのことをマイワイ、マンイワイと称していた地域もあり、その祝宴に着る着物なので万祝と呼ばれるようになったと考えられています。
 博物館では4点の万祝を収蔵し、うち1点を常設展示しています。絵柄は、背に鶴を染め、船印や家紋を印し、鶴の口に吹き流しをくわえさせ、そこに漁船名などが書いてあります。収蔵品には「スカ明神丸」、カツオ船だった「富国丸」、「須賀漁業組合」などの文字が書かれています。裾波に松竹梅鶴亀の吉祥模様が多く描かれ、浦島太郎と竜宮城の絵などもあります。
 万祝は、青森県から静岡県にけての太平洋沿岸に伝えられた習俗です。海の香り漂う、華やかで粋な絵柄は、現代のファッションに取り入れてみても面白いのではないでしょうか。(平成19年10月15日)
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第8回 ビーチコーミング−自分だけの宝探し
海辺の漂着物から自然を学ぶ「漂着物を拾う会」の活動 
 海岸を歩いて、きれいな貝殻を拾う遊びは、だれもが一度は体験したことがあるのではないでしょうか。波に洗われて、元の形をとどめないほどに円くなった貝がらや陶器、瓶のかけらは独特な風合いを持ち、小さな宝石のようでさえあります。
「ビーチコーミング」という浜辺での楽しみ方が、しばしばメディアで取り上げられます。一般には「浜辺で拾い物をする趣味」という意味で使われる言葉です。浜辺には、海からいろいろなものが流れ着きます。貝殻(ときには貝そのもの)、ヒトデ、海藻、カニ、魚といった海の生き物から、木の実、木片、草の根、ザリガニなどの陸の生きもの、ペットボトル、空き缶、たばこのフィルターといった、人間がごみとして捨てた物、「浮き」などの漁具と、挙げればその種類にはきりがありません。
 浜辺の漂着物は、波に打ち上げられたり、さらわれたり、だれかに拾われたりして、常に変化しています。ビーチコーミングをする人は、偶然のもたらした形の変化や“もの”との出合い、漂着物を通して垣間見ることのできる自然の営みの不思議さを楽しみ、そこに自分だけの宝物を見つけています。
 海岸なら、どこでも楽しめるビーチコーミング。みなさんもちょっと海まで、いかがですか。(平成19年11月15日)
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第9回 クロマツ林−海風からまちを守る緑の壁
上空から見た平塚海岸のクロマツ林 
 船で沖合いに出て平塚を振り返ると、黒々と茂った松林が海岸を帯のように縁取っていることがよく分かります。このクロマツ林によって、平塚のまちは潮気を含んだ南風や、砂の吹きつけから守られているのです。
 平塚市の中心部、特に東海道線より南側には、所々にクロマツの大木が残っています。袖ケ浜にある「扇の松」は、中でも最も有名な木でしょう。古い砂丘の上に広がる平塚市の中心部では、クロマツが景観をつくる代表的な樹木と考えることができます。こうしたクロマツは、自然に生えただけではなく、積極的に植林もされました。
国道134号沿いに帯のように生えているクロマツは、戦後に植林されたものがほとんどです。
かつてのクロマツ林は、落ち葉や落ち枝が燃料として利用されるので繰り返し落ち葉かきが行われ、やせた土壌になっていました。クロマツはそうした条件の下では、根が特定のキノコと共生関係を結ぶことが知られています。食用になる「ショウロ」はそうした菌類の一つで、平塚でも楽しみに探す人が多かったようです。
 現在の海岸沿いのクロマツ林は、常緑樹を一緒に植え、また肥料も補って、厚い緑を作るような管理がされています。昔の松林とはずいぶん感じが違うという印象を持っている方も多いと思いますが、限られた場所で松林を育てていくためには、やむを得ない方法
といえるでしょう。(平成19年12月15日)
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第10回 カモメ−冬こそカモメの季節
海面に降りたユリカモメ(上)とウミネコ(下)
 海の鳥といえば、多くの人がカモメを思い浮かべるでしょう。また、カモメが夏の海のイメージと結び付いている人も少なくないようです。しかし、実際に夏の平塚の海で見られるのはウミネコという種類だけで、ほかのカモメ類は冬鳥として渡ってきます。つまりカモメを観察しようと思ったら、寒い冬こそチャンスなのです。
平塚海岸で見られるカモメは、おもに4種類です。もっとも小さいのがユリカモメで、赤いくちばしと足が目立ち、川にもよくさかのぼります。次に大きいのがウミネコで、1年中平塚の海で見られ、尾の先に黒い帯を持つのが特徴です。そして、もっとも大きいのがセグロカモメとオオセグロカモメの2種類で、くちばしが太くて黄色く、下くちばしの先端に赤い点があるのが共通の特徴です。オオセグロカモメの方が背中の色が濃いので見分けられます。そのほかに、カモメ、ミツユビカモメなどの種類もまれに観察されることがあります。また、カモメ類は年齢によっても羽の色が変わりますから、その種類を正確に見分けるには相当の経験が必要です。
さて、これらのカモメ類は海辺で何を食べて暮らしているのでしょうか。その清潔な姿からは意外なことですが、専ら魚の死体などをえさにしており、捨てられた魚のあらなどが大好物です。別の言い方をすれば、カモメ類は海辺の掃除屋で、陸上のカラスと同じような役目を果たしているのです。(平成20年1月15日)
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第11回 海岸の砂−砂はどこから?
平塚海岸の砂を拡大してみると…
 平塚の海岸をつくっている砂浜の砂はどこから運ばれてくるのでしょうか? それは砂粒がどんな粒子からできているのかを調べることで知ることができます。砂浜の砂を持ち帰り顕微鏡で見てみると、砂粒はいろいろな粒子からできていることが分かります。
砂粒は大きく三つに分けることができます。一つは光に当てるときらきら輝く結晶片、二つは光らない岩石片、もう一つは貝殻などの生物片です。平塚海岸の砂は岩石片が極めて多く、結晶片は2割程度です。岩石片の多くは、青灰や緑色を帯びた丹沢山地を作っている凝灰岩(火山灰が固結したもの)です。中には富士火山の溶岩に由来する砂粒や、津久井湖や相模湖付近に露出する砂岩の砂粒も見られます。
一方、結晶からなる砂粒には無色透明のもの、白色のもの、黒色のもの、だいだい色のものなどがあります。これらは富士山や箱根火山の火山灰に含まれ、噴火で飛
ばされてきたものや、丹沢山地などを作っている岩石に含まれている雲母や石英などです。
こうした粒子の種類をみると、平塚海岸の砂は、相模川や金目川から海に運ばれ、海岸に打ち上げられたことがわかります。湘南海岸の各地で砂を調べると、相模川の砂は大磯港までしか運ばれず、二宮や国府津海岸の砂は、酒匂川により運ばれた砂であることもわかります。鎌倉の海岸では小さなアンモナイトのような有孔虫という原生動物の殻がたくさん砂粒に含まれています。江の島以東の海岸では貝殻片が多く、この辺りでは相模川によってもたらされた丹沢の砂粒はほとんどありません。 (平成20年2月15日)
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第12回 環境の変化−漂着物から自然を考える
 4月、桜が散り始めると、虹ケ浜の海岸にたくさんの花びらが流れ着きます。花水川の岸に咲いた桜でしょう。桜の花びらは、浜辺にも春の訪れを告げます。同様に波打ち際に流れ着く“ もの”たちは、自然の移り変わりをわたしたちに教えてくれます。
 ある日、虹ケ浜に甲殻類(エビ・カニの仲間)のはさみがたくさん流れ着きました。見ると、同じ種類の左手ばかりです。持ち主はだれでしょうか。
 カニなら両手が見つかりそうです。ヤドカリは片手だけが大きいので、きっとヤドカリでしょう。季節は晩秋の11月。海の中も秋から冬に変わって水温が下がったために、死んでしまったのでしょう。この左手の持ち主(テナガツノヤドカリ)が、平塚の海の底にたくさんすんでいて、水温の低下に弱いことが分かります。
 最近よく流れ着くものに、ミドリイガイという外来の二枚貝がいます。もともと日本にいなかった種類が繁殖しているということも問題なのですが、このミドリイガイは、海水温が上昇していることをわたしたちに教えています。この貝は熱帯が原産なので、水温が高くないとすむことができないからです。
 浜辺に通い続けると、いろいろな出来事に出会います。その出会いは、わたしたちに様々な環境の変化を教えてくれるものなのかもしれません。(平成20年3月15日)
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第13回 ハマエンドウ−花が支える虫のくらし
ハマエンドウ 
 春の砂浜には色とりどりの花が咲き乱れ、小さな花畑のような景観を作り出します。ピンクのハマヒルガオ、黄色のハマニガナ、白いハマボウフウなどに混ざって、ひときわ目を引くのが赤紫色の花をつけるハマエンドウです。
 ハマエンドウは、その名の通り、エンドウ豆の仲間にあたるマメ科植物で、花のつくりを見ると、スイトピーそっくりの形をしています。
 ハマエンドウの花が咲くころ、その周りを飛び回る小さな甲虫がいます。大きさが3  くらいしかない虫ですから、まず気がつくような人はいないでしょうが、この虫はクロマメゾウムシという種類で、ハマエンドウのさやに卵を産みつけ、幼虫は、その種子を食べて大きくなります。つまり、クロマメゾウムシにとって、ハマエンドウがなくては生活が成り立たないのです。
 湘南海岸のハマエンドウは、さまざまな原因で衰退気味となっています。砂浜に生える植物は人の踏みつけに弱く、また、いろいろな工事の影響で少なくなってしまった場所もあります。
 ハマエンドウの衰退は、クロマメゾウムシにとっては死活問題です。事実、神奈川県のレッドデータ生物調査報告書では、クロマメゾウムシが絶滅危惧2類に位置づけられています。長い時間をかけてはぐくまれてきた生きものたちのつながりを絶やさないためにも、浜辺の自然を守っていく必要があります。(平成20年4月15日)
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第14回 平塚砂丘−夕映えの風景
 平塚海岸の夕映えは『平塚砂丘夕映え』として平塚八景の一つに挙げられ、龍城ケ丘プールの東側にその碑が建っています。相模川から花水川まで4キロメートルほど続く平塚海岸には、砂丘と松林が連なり、憩いを求める家族連れや釣り客でにぎわいます。
 砂丘は、海浜にたい積した砂が潮流によって砂州の高まりを作り、その砂が風で飛ばされて、さらに大きな高まりを作ったものです。1980年代までは、形成の進む砂丘が見られましたが、河川からの土砂の供給量が減ったことなどが原因で、今ではほとんど見ることができなくなってしまいました。ちなみに、海岸に沿って走る国道134号は、現在の砂丘より内陸側にある一世代古い砂丘の上を走っています。
 平塚砂丘に立つと、東は三浦半島から、西は伊豆半島や箱根・富士、南は遠く伊豆大島まで、相模湾全体を見渡すことができます。夕暮れ時、海岸線から望む赤く染まった夕映えは、富士や箱根・伊豆連山のスカイラインがくっきりと浮かび上がり、例えようのない絶景となります。特に箱根のシルエットは、真鶴半島に延びる箱根火山の外輪山の斜面と、右から神山・駒ケ岳・二子山と続く中央火口丘がはっきりと浮かび上がり、箱根火山の成り立ちを読みとることもできます。(平成20年5月15日)
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第15回 漂着物−遠き島より流れ寄るロマン
 
エボシイガイが付着した漂着物
 島崎藤村作詞の唱歌「椰子の実」のイメージから、遠方から浜辺に流れ着くものとして、ヤシの実(ココヤシ)を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。平塚海岸でも、ヤシの実に出会うことがあります。皮がささくれたココヤシは、おそらく長旅をしてきたのでしょう。しかし、果皮のきれいなものは、近くで捨てられた可能性が高いと考えられます。
相模湾には黒潮の支流が流れ込んでいるので、南方から流れ着くものがあるのは、まったく不思議ではありません。そのことがはっきり分かるものは少ないのですが、サキシマスオウノキやゴバンノアシといった南方性の木の実は、長い旅の後にたどり着いたと考えて間違いないでしょう。
 海の中を漂っていた時間の目安になるものとして、エボシガイやフジツボ(どちらもエビ・カニの仲間)などの付着生物があります。エボシガイは海面に浮かぶものにくっついて生活していて、浮きや瓶、ペットボトルなどの人工物にも付着します。これらの動物がくっついて、大きく成長するには、それだけの時間が必要です。ですから、エボシガイやフジツボがついていればついているほど、大きければ大きいほど、長い間海にあったと考えることができます。
 これらの生きものは、わたしたちに“もの”の来歴を教えてくれる重要な手がかりの一つです。(平成20年6月15日)
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第16回 カツオ漁−須賀の鰹一本釣り
戦後のカツオの一本釣り(平塚市漁業協同組合提供)
 かつて、須賀は鰹の一本釣りが盛んで、大正時代には36艘もの鰹船があったといわれています。漁期は3月から11月。春は八丈島付近から始まり、三宅島、御蔵島、利島と黒潮の流れとともに北上し、夏は伊豆大島からジウミ(相模湾内)、秋は下り鰹を追って外房の勝浦沖まで出漁しました。ひとたび漁に出ると1か月ほどは須賀に戻らず、7月の三嶋神社のお祭りまで戻らないこともあったといいます。船には20人ほどの漁師が乗り込み、鰹のナブラ(群れ)を見つけるといっせいに竿をおろし、豪快に釣り上げました。
 釣った鰹は冷凍にしておき、えさのシコイワシ(カタクチイワシ)が無くなるまで数日間漁を続け、漁場近くの港へまとめて水揚げしました。そして、港で生き餌を買い込み、再びナブラを求めて船を走らせました。長期間須賀へ戻らなかったのは漁場から遠く、鰹を水揚げするにも餌を買うにも、網代や伊東など漁場に近い港が好都合だったからです。また、冬はサバやメジマグロ、イカを追って伊豆沖や房州沖などへ出漁したので、鰹漁師は1年のほとんどを海で暮らしていたことになります。
 近海では次第に鰹が釣れなくなり、一本釣り漁船は昭和40
年代に釣り船業へと転身していきます。今では、毎日たくさんの釣り船がお客さんを乗せ、沖へ出て行きます。一本釣りではありませんが、夏から秋にかけてこれらの釣り船に乗れば、鰹を釣ることができます。(平成20年7月15日)
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第17回 砂丘−かつての海岸線を物語るもの
風紋の見られる平塚の砂丘(1980年ごろ・虹ケ浜)
 相模川河口から花水川河口へ至る平塚海岸。そこには、砂浜に平行して砂丘の高まりが続き、背後に松林のくぼ地が延びています。
砂丘は、潮流によって運ばれた砂が砂州をつくり、その砂が風に飛ばされて、高く積もったものです。平塚でも1980年代までは風紋の見られる典型的な砂丘が見られましたが、現在ではあまり見ることができなくなってしまいました。
平塚の市街地を南北に歩くと、平たんに見える街にも高まり(砂州・砂丘)や、東西に延びるくぼ地がたくさんあることがわかります。例えば、平塚市役所はくぼ地に、博物館は砂州の上にあります。また、平塚八幡宮や中原の日枝神社、真土神社などがある場所はさらに標高が高く、砂州の上に砂丘が重なっています。
平塚で最も北にある砂丘は、海岸から5キロメートルも離れた豊田八幡宮のある場所にあります。
砂丘は海岸にできるものですから、このような砂丘の分布は、かつての海岸線の変化を示していることになります。平塚の市街地には十数列の砂州・砂丘列があります。これらは今から約5千年前以降、海岸線が次第に前進していく過程で形成されました。ちなみに、東海道線付近が海岸線だったのは、今から約2千年前のことです。大地は、土地の隆起や沈降、河川からの土砂の流入、波浪などにより、幾度となく浸食とたい積が繰り返され形成されてきました。平塚の地も、このような数千年の歴史の中でつくられてきたのです。(平成20年8月15日)
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第18回 魚屋さん−須賀のボテイ
馬入橋を渡るボテイ(昭和元年)
自転車での魚行商
(昭和52年)
 みなさんは魚が食べたいとき、どこで買っていますか?
今はスーパーマーケットで買う方が多いと思いますが、昔は近所の魚屋さんでした。でも、これもさほど古いことではありません。店舗を構えた魚屋さんが増えるのは戦後になってからで、それ以前は行商人から買っていました。
明治時代の須賀(現在の港地区)には、魚の行商人が200人もいました。行商人は「ボテイ」や「ボテフリ」と呼ばれ、須賀のボテイが魚を売りさばいた先は、平塚周辺はもちろんのこと、東は戸塚や瀬谷、北は相模原・津久井から青梅・大月までと広範囲に及びました。相模湾には、小田原市小八幡や茅ヶ崎市南湖などにも魚行商人がいましたが、須賀ほど広い交易圏を持っていた漁港はありませんでした。
 それは、北に相模平野が広がり、天秤で魚籠を担いで歩くのに好都合だったからです。
ボテイはたいへん足が速く、「須賀の頓狂は鳥より早い、鳥が一町飛べば八町飛ぶ」といわれていました。急ぐときは厚木まで1時間で駆けて行ったといわれています。ボテイが商売先でおもしろおかしく語った“須賀の頓狂話”が各地に伝わっています。機知に富んだ軽妙な語り口で、巧みに商売を進めました。
 昭和に入ると、自転車を使った行商が増え、戦後は得意先に店舗を獲得する人も出てきました。だから相模川流域には、須賀出身の魚屋さんが案外多いのです。(平成20年9月15日)
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第19回 記念碑−花水河口の四十五佳選の碑
 花水川橋の平塚側のたもとに「平塚市花水河口」と彫られた石碑があります。宮城県石巻産の稲井石(仙台石)という粘板岩でできたこの石碑。脇には、「名勝史蹟四十五佳選」とも刻まれています。「名勝史蹟四十五佳選」とは、昭和10年10月に横浜貿易新報社(神奈川新聞社の前身)が読者の投票によって選定した名勝・史蹟で、当選地には記念碑を建てることが懸賞になっていました。同社の創業45周年記念事業として行われたので、四十五佳選のようです。投票用紙は新聞の紙面に直接刷り込まれ、応募するには新聞を購入しなければならないところがみそだったようです。
投票の結果、花水河口は8万350票で20位にランクされました。また、平塚市内では金目観音も38位にランクされました。トップ当選を果たしたのは愛川町の中津渓谷で、応募総数500万票中の28万票を集めました。中津渓谷入口には、今でも「半原渓谷石小屋」と刻まれた四十五佳選の碑があります。
今では「八景」や「百選」のような選定が数多くありますが、戦前からあったのには驚きます。それと同時に、花水河口が四十五佳選の一つであったということは、花水川と砂丘が作り出す景観が、いかに風光明媚であったかを物語っています。(平成20年10月15日)
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第20回 浦境−江戸時代の海の境界
「平塚村と淘綾郡大磯村浦境争論裁許絵図」元禄5年(1692年)9月【平塚郷土文庫蔵】
 平塚市の地図を見て、花水川右岸(大磯側)の唐ケ原が平塚市域であることを不思議に思う方も多いのではないでし
ょうか。
江戸時代の初期、花水川河口一帯は川の蛇行とはん濫が激しい湿地帯でした。慶長15年(1610年)の古文書によると、人々はここに萱を生やしたり、「馬はなちば(放牧場)」にしたりして利用していたことがわかります。しかし、はん濫により川筋が不安定なため境界が不明確で、平塚と大磯の間でたびたび境界争論が発生しました。
元禄4年(1691年)、大磯の者が浦境(海の境界)を越えて平塚の海で鮗(コハダ)をとっているとして境界争論が発生しました。裁判の結果、花水川の旧河道である「細沼」が両村の境であるとする平塚の主張が認められ、そこから海の方へ見通した線が浦境となりました。その裁許絵図を見ると、細長い旧河道に沿って境界を示す黒線が引かれているのがわかります。そして、これが現在の平塚市と大磯町の境界となりました。つまり、花水川がはん濫し、流れを変えた旧河道が境界とされ、今に伝わっているのです。
 博物館では花水川も含めた金目川水系の総合的な特別展「金目川の博物誌」を11月
30日(日)まで開催しています。ぜひ、お越しください。(平成20年11月15日)
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第21回 貝塚−縄文の海に思いをはせて
縄文期の海岸線の様子
万田貝塚から出土した貝殻
 平塚には、縄文時代につくられた貝塚が二つあります。
一つは、縄文時代前期(約6500年前)につくられた万田貝塚、もう一つは国指定史跡になっている縄文時代中期(約5500年前)の五領ケ台貝塚です。今回は、貝塚から当時の海の様相を考えてみましょう。
二つの貝塚は大磯丘陵の東端に位置しています。このうち万田貝塚は、現在の海岸線より直線距離で約2・5キロメートルも内陸にあります。そんなに離れた海にまで、貝を採りに行っていたのでしょうか…?
当時は気候が現在より温暖だったために、氷河の氷が溶けて海面が上昇し、万田貝塚や五領ケ台貝塚周辺にまで海が広がっていたのです。その後、気候が寒くなり、海面が下がるとともに平野が形成され、現在の姿になりました。
以前実施した万田貝塚の調査では、61種の貝が確認されました。貝の種類から、どのような場所で採集したのかが分かります。ハマグリやアサリは内湾の砂底、オキシジミやマガキは干潟、アワビやサザエは岩礁、ヤマトシジミは汽水域、カワニナは淡水域に生息します。出土した貝や化石から、当時の相模湾は静かな内湾で、変化に富んだ生息環境であったと考えられます。
貝塚からは、縄文人の海での積極的な活動や、自然に対する豊かな知識をうかがい知ることができます。(平成20年12月15日)
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第22回 日の出−初日の出に願いを掛けて
湘南ひらつかビーチパークから望む2009年の初日の出
 今年の元日、関東地方は穏やかな晴天に恵まれ、各地で初日の出を見ることができました。平塚の海岸にも、初日の出を拝もうと例年にも増して多くの人が繰り出しました。
湘南ひらつかビーチパークでは、新年のカウントダウンイベントに続いて、大みそかの晩から日の出を待ち続けた人たちもいたようです。
冬至から新年にかけては、日の出の時刻が一年で最も遅い時期にあたります。午前5時を過ぎると東の空が白み始めますが、この時間は一日のうちで最も寒さがきつい時間です。身を切るような寒さをこらえて、新しい年の日の出を待つ人たち。その数は、夜明けが近づくに連れてどんどん増えていきました。
午前6時52分、三浦半島の先端付近に少しかかった雲間から、ついに今年初の太陽が顔を出すと、ビーチパークを埋め尽くした数千の人たちから大きな歓声が上がりました。
見る見るうちに明るさを増していくオレンジ色の太陽。その雄大な姿を心に刻み、暖かさを体に感じながら、人々はそれぞれ、新しい年の願いを掛けていました。
さて、1月も半ばとなりましたが、日の出の時刻はまだ元日とほとんど変わっていません。日の出が早くなってきたと感じられるのはもう少し先、立春のころからです。(平成21年1月15日)
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第23回 浮島現象−寒い朝に見られる蜃気楼
平塚海岸で見られた浮島現象三浦半島が浮き上がって見えます。浮島現象を拡大すると…. 
  冬のよく晴れた寒い日に浜に行くと、遠い三浦半島や水平線の船が、海面から浮き上がって見えることがあります。この現象は「浮島(うきしま)」などと呼ばれます。
 空気中を進む光は、空気の密度が濃い方へと曲がる性質があります。気温が低く、海水の温度がそれより暖かいと、海面近くの空気はそれより上の空気より暖かくなり膨張するので密度は薄くなります。これによってわたしたちに届く光(景色)が空気の密度が高い上の方に曲げられ、本来は上にある物の像が下からわたしたちの目に届いてくるのです。
 右上写真のように、浮島現象を拡大して観察すると、浮かんで見える景色は、二つの矢印の間に鏡を置いたように、逆さまの像が実像の下部にくっついて見えていることに気づきます。つまり島を浮かせている空間は、本当は島の上にある空が見えているものなのです。
 この現象は「下位蜃気楼」とも呼ばれます。暑い日に熱せられたアスファルトの路面が水面のように見える「逃げ水」も、これと同じ原理です。(平成21年2月15日)
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第24回 海へ出かけよう−平塚沖の波浪等観測塔
水深20mの海底に立つ波浪等観測塔。海に浮かんでいるのではありません
  平塚の海に出かけたことのある方なら、虹ケ浜の沖合に写真のような塔があるのをご存じだと思います。「波浪等観測搭」と呼ばれるこの塔。昭和
40年に、科学技術庁(現文部科学省)の附属機関「国立防災科学技術センター(当時)」が設置したもので、海洋の様々な自然現象を観測するための施設です。
 ここで得られた波高や潮位、潮の流れ、水温、津波、風速や風向、地殻変動など様々なデータは、海底ケーブルを通して虹ケ浜にある施設に伝送されています。ウェブ上で公開されているこれらのデータを見ると、気象や潮ちょうせき汐などと深く関連して、海の姿が刻々と変化していることがわかります。 平塚の海のシンボルともいえるこの観測搭も老朽化し、重要性が薄れたとして、国の行政改革により平成20年に廃止が決まりました。しかし、存続を望む声は多く、現在、東京大学生産技術研究所に管理を移し、研究に活用していく方向で調整が進められています。現在は神奈川県が管理し、「平塚沖波浪等計測データ」というウェブサイトで記録データやライブカメラの映像を見ることができます。(平成21年3月15日)
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