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ひらつか歴史紀行 第45回

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ひらつか歴史紀行

 



第46回 近世平塚の領主 その3(領主の家計) (2014年6月号)


 前回は平塚市域の領主配置を大きく変えた「地方直し(じかたなおし)」について、みてみました。
  今回は平塚を支配した領主の家計について見てみたいと思います。平塚の領主の多くは石高一万石以下の旗本や、小藩でした。財政力のない領主は物価の高騰とともに特に慢性的な財政難に見舞われ、借財を増やし、しばしば所領の村々に負担を求めました。しかし、一方で、借財返済や財政改革に向けた取り組みもおこなわれ、倹約策や所領の村々による領主財政の管理などもおこなわれました。
  上吉沢村・下吉沢村に200石の領地をもっていた旗本石原氏では、財政難のため、文政12年(1829)2月、1年の生活費の計画書である「丑年御暮方定帳」(うしどしおくらしかたさだめちょう)が作成されました。この史料の中身をグラフにしたのが下図です。この年の収入は84~85両ほどと見積もられていましたが、支出は91両余と見積もられ、8両余の不足が見込まれました。支出の内訳をみると、飯米代・雑用代といった日常的な支出のほかに、無役の旗本に対して課された小普請金3両、武芸の稽古代3両2分などがみられます。一方、借用金の返済が37両余と全支出額の4割強を占め、借財に悩む領主の姿がうかがえます。

文政12年「丑年御暮方定帳」 【図1】文政12年における旗本石原氏の支出見積り
文政12年「丑年御暮方定帳」 文政12年における旗本氏の支出見積り

 
 領主財政のひっ迫は旗本だけでなく大名家でも見られます。市域では長持村・根坂間村・西海池村に領地を持っていた1万5千石の大名米倉氏の六浦藩は、年代は不明ですが、商人への不払い金が2495両以上もあり、天保10年(1839)年には相模・武蔵の16か村に1662両余の先納金(年貢などを領主が前借する形で納めさせる金)を命じるなど財政難におちいりました。こうしたなか、万延2年(1861)2月、六浦藩勘定所では藩財政の倹約に向けた「諸向渡方御減方取調帳(しょむきわたしかたおへらしかたとりしらべちょう)」が作成されました。この取調帳に記された倹約例を下表でみると、御蔵開きの際の神酒を1升から1合へ、御祐筆方筆墨料を銭600文から300文へと減少させるなど、祭礼行事の供物から役所での事務用品にいたるまで非常に細かな倹約がみられます。

 

万延2年「諸向渡方御減方取調帳」 万延2年「諸向渡方御減方取調帳」にみる倹約の一例
万延2年「諸向渡方御減方取調帳」 万延2年「諸向渡方御減方取調帳」にみる倹約の一例




【参考文献】
 春期特別展図録「近世平塚への招待-館蔵資料で見る23題 2005年

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