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ひらつか歴史紀行 第44回

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ひらつか歴史紀行

 



第44回 近世平塚の領主 その1(近世初頭の領主)


 天正18年(1590)、小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れると、徳川家康は江戸城に入場し、関東の多くが徳川氏の領国になりました。これが関東地方の近世の幕開けです。
 相模国も家康の支配下に入りました。家康の江戸入り後の相模国の領主を図1でみると、最も多いのが徳川氏直轄領で、次に藩領、そして旗本領と続きます。

天正18~20年相模国所領構成
【図1】天正18~20年相模国所領構成

 これを図2で郡別にみると藩領は足柄上下郡のみで、これは領国境の押さえとして配された大久保氏の小田原藩領です。また、旗本領は戦に備え江戸から10里(40㎞)前後の近郊に配置され、高座郡など東部に多く分布しています。そして、直轄領は足柄上下郡以外の諸郡に広く分布していますが、なかでも平塚市域を含む大住郡はその中心といえます。

<FONT size="-1">【図2】天正18~20年相模国郡別所領構成</FONT>
【図2】天正18~20年相模国郡別所領構成

  これら直轄領は当初、彦坂元正・伊奈忠次ら代官頭によって広域的に支配されました。しかし、慶長15年(1610)、伊奈忠次が死去すると、相模国中郡(淘綾・大住・愛甲郡)は、中原陣屋を拠点とする中原代官によって支配されるようになりました。中原代官は一村を複数の代官によって管轄する「相代官」制という特長的な支配を行いました。下に掲載する史料は慶長16年11月の真田村の年貢割付状です。ここには6名の代官の署名がみられます。この中原代官の出自は、大きく二つの系統に分けられます。一つが家康の関東入り以前から家康の地方巧者(民政にたけた者)として登用さていれた系統の者。もう一つが関東入り以降、小田原北条氏の旧臣から登用された系統の者です。つまり、徳川譜代の代官に加え、在地の事情に詳しい小田原北条氏旧臣も加えた中原代官の支配方式には、代官頭消滅後の徳川氏の在地支配を地域の事情に即して強化しようとするねらいがうかがえます。

 

慶長16年11月真田村年貢割付状(当館寄託)
慶長16年11月真田村年貢割付状(当館寄託)




【参考文献】
 春期特別展図録「近世平塚への招待-館蔵資料で見る23題 2005年

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