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ひらつか歴史紀行 第43回

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ひらつか歴史紀行

 



第43回 平塚空襲 その7(復興に向けて)


 前回は7月16日の空襲以外の空襲についてみました。今回は空襲後の生活や復興に向けた動きに触れたいと思います。
 空襲が終わった後、避難先から自宅へ戻り始める時間はまちまちでしたが、焼け野原で目印のなくなった街では自宅の位置を確認することさえ困難だったといいます。病院も焼け、空腹や激しい渇き、トイレをどうするか、手ぬぐいなど身近な生活用品がないという状況から、生活を建て直さなければなりませんでした。焼け残った家での数所帯共同の生活や、焼けトタンとわずかな材木で建てたバラックでの生活が始まりました。子どもたちは学校での片づけに加わり、校舎の焼けた学校では、他の学校の校舎を借りて二部制の授業や、校庭での青空教室による授業も行われました。

大野町『戦災者調査書』(当館蔵)
大野町『戦災者調査書』(当館蔵)

 市域の戦災者の生活状況を物語る史料に、1945(昭和20)年10月に旧大野町が作成した『戦災者調査表』、11月に同町が作成した『戦災者調査書』があります。これによると、「自家」に居住しているとされている人でも、バラックや物置などで暮らしている場合があることや、衣類寝具、農具、炊事用具、傘などの焼失が生活への打撃になっていることがうかがえます。なお、『戦災者調査表』『戦災者調査書』の内容は、『市民が探る平塚空襲 資料編(1)(2)』で紹介しています。
 1946(昭和21)年3月、県土木部の事務所として平塚復興事業所が設置されました。平塚が商工都市、住宅地として発展するためには、市街地の過密状態緩和が課題で、戦災後の現況を踏まえて、駅前広場や34か所もの公園緑地、道路は最大36m、幹線22m、補助街路11~22mを確保する計画で、用地交渉が始まりました。この戦災復興事業により、現在の市街地の街並みが形成されていきました。
 また、学校は国民学校4校のうち3校、市立高等女学校・農業学校・工業学校などが焼失しました。戦後も他校の間借りや青空教室が続きましたが、1949(昭和24)年になって、学校再建の誓いの場として、市内の児童生徒を集めた「学校定礎式」が開かれました。この定礎式の場で柿澤篤太郎市長は、大人を代表して子どもたちに戦災で苦労させたことを詫び、「この礎石と校旗とは、平塚市の大人の全部が平塚市の子どもたちの全部に心を込めて差し出す贈り物なのであります」と演説をしました。この学校再建の財源確保のため、平塚市は翌年、競輪場を建設し、第一回平塚競輪が開催されました。

「学校定礎式」で、市立平塚商業高校に贈られた「礎」の碑(当館屋外展示場)
「学校定礎式」で、市立平塚商業高校に贈られた「礎」の碑(当館屋外展示場)




【参考文献】
 夏期特別展図録「市民が探る平塚空襲-65年目の検証」平塚市博物館 2010年

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