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ひらつか歴史紀行 第38回

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ひらつか歴史紀行

 



第38回 平塚空襲 その2(平塚空襲に投下された焼夷弾)


 前回は、平塚空襲の概要をみました。今回は平塚空襲に投下された焼夷弾をみていきたいと思います。
 平塚に投下された焼夷弾の数は米軍の記録によれば447,716本にもおよびます。この数は、一日に投下された焼夷弾の数としては八王子(619,732本)、富山(559,205本)に次ぐ、全国で三番目に多い数になります。
 それでは、平塚空襲ではどのような焼夷弾が投下されたのでしょうか。
 一つはM50焼夷弾(AN-M50A2)です。これはM17集束弾(AN-M17A1)に110本集束されているテルミット・マグネシウム焼夷弾で、直径5cm、長さ35cm、重量2㎏で六角形の形をしており、上空1500mで散開し、地上に降り注ぎました。テルミット(酸化鉄とアルミニウムの還元反応により2300度の高熱を発する)で、外側を包むマグネシウムを燃焼させ、閃光を発しながら火花をまき散らします。対ドイツ戦でコンクリートの建物を破壊することを目的に開発されました。終端速度(地上に落下する直前の速度)は130m/秒です。M50焼夷弾は平塚空襲では406,010本投下されました。

M50焼夷弾(当館蔵) M17集束弾とM50焼夷弾の散開 M17集束弾の中にM50焼夷弾が110本集束されており、上空1,500mで散開した。
M50焼夷弾(当館蔵) M17集束弾とM50焼夷弾の散開 M17集束弾の中にM50焼夷弾が110本集束されており、上空1,500mで散開した。

M17集束弾尾部(当館蔵) M17集束弾側板 M17の内部でM50焼夷弾を固定した側板
M17集束弾尾部(当館蔵) M17集束弾側板 M17の内部でM50焼夷弾を固定した側板(当館蔵)

 二つめはM47焼夷爆弾(AN-M47A2)です。これは直径20cm、長さ1.2m、重量45㎏の爆発性の焼夷弾で、鉄製の弾筒内にガソリンにゴム・灰汁・ココナッツ油を混合したゼリー状の油脂約18㎏を封入し、弾頭に火薬を装填して投下しました。終端速度は270m/秒で、平塚空襲では41,706本投下されました。

M47焼夷爆弾の残骸(当館蔵)
M47焼夷爆弾の残骸(当館蔵)

 最後に、米軍の記録には記載がありませんが、いくつかの証言が寄せられており、投下された可能性があるのが、M69焼夷弾(AN-M69)です。これは、E46集束弾に38本集束されている焼夷弾で、直径8cm、長さ50㎝、重量4kgの鉄製六角形缶の中に、約1.3kgのガソリン、ココナッツ油をゼリー状(ナパーム)にして充填したものです。落下時の速度制御のため長さ1.2mのリボンをつけました。そのため、終端速度も70m/秒と他の焼夷弾にくらべて遅い。特に燃えやすい日本家屋への焼夷攻撃のために開発されました。

M69焼夷弾 米軍資料に平塚空襲で野投下記録はないが、伊勢原市見附島でみつかっている。
M69焼夷弾 米軍資料に平塚空襲での投下記録はないが、伊勢原市見附島でみつかっている。

 平塚空襲では、このほかに照明弾54発も投下されました。灯火管制の続くなか、昼のような明るさにさらされて、人々は恐怖感を募らせました。
 さて、平塚空襲ではこれらの焼夷弾を、東海道(旧国道1号線)の商店街にあった旧飯島デパート付近(現まちかど広場付近)に置かれた爆撃中心点から半径1.2㎞以内の範囲に搭載量の50%以上を落とす計画で実施されました。

【参考文献】
 夏期特別展図録「市民が探る平塚空襲-65年目の検証」平塚市博物館 2010年

 

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