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ひらつか歴史紀行 第37回

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ひらつか歴史紀行

 



第37回 平塚空襲 その1(平塚空襲の概要)


 前回までは、金目川と人々の暮らしの関わりの歴史をみてきました。今回からは、平塚空襲についてみていきたいと思います。
 第二次大戦末期、平塚市は米軍による空襲を何度か受けました。そのなかで、最も規模が大きなものが1945(昭和20)年7月16日深夜から17日未明にかけて受けた、B29爆撃機133機による空襲でした。これをほかの空襲と区別して「平塚空襲」と呼びます。
 この空襲は、各回3~4都市を波状的に焼夷弾攻撃する「中小都市空襲」の一環で、この夜は平塚のほかに沼津・大分・桑名が空襲されました。空襲により、平塚では死者328人以上(平塚の空襲と戦災を記録する会調べ)、重傷者268人、罹災者35,336人、全焼8,236戸(神奈川県警調べ)という被害を受けました。当時の平塚市の人口は約5万4千人、大野町を含めて約6万5千人というなか、60%以上の人が焼け出されたことになります。
 この空襲で、米軍が攻撃目標とする面積の44.2%が焼失しましたが、そのうち、市街地の焼失が目標面積の57%に達しているのに対し、工業地域の焼失は23%で、工業地域の焼失割合は市街地にくらべて小さくなっています。このことは、平塚空襲が、一般居住地帯を攻撃するようになった中小都市空襲の典型であったことを示しています。平塚空襲では、攻撃の目印とする爆撃中心点は、東海道(旧国道1号線)の商店街にあった旧飯島デパート付近(現まちかど広場付近)に置かれており、まさに市街地が攻撃目標の中心となっていました。市街地を中心とした爆撃は、市民の生活基盤を崩壊させ、軍需産業を支えていた家内工業を破壊し、さらには人々のなかに厭戦意識を作りだして戦争継続の力を弱めようとする戦略によるものでした。

空襲時の平塚と被災規模 米軍の攻撃データ
人口 54,050人(1944年12月 平塚市調べ) 作戦番号 No.274(日本中小都市空襲の9回目)
面積 11.21平方キロメートル 所属航空軍 米陸軍第20航空軍第314航空団
(グアム島ノースフィールド基地)
死亡者 328人以上(他市町村を含む)
(平塚の空襲と戦災を記録する会調べ)
投弾機数 ボーイングB29 133機
(先導機12機、レーダー対策機4機を含む)
負傷者 268人(神奈川県警調べ) 攻撃始点 伊豆大島 乳ヶ崎付近
罹災者 35,336人(神奈川県警調べ) 爆撃中心点 現まちかど広場付近
罹災戸数 7,678戸(神奈川県警調べ) 飛行速度 時速426.5km(平塚滞空時間約20秒)
攻撃面積 米軍見積もり 6平方キロメートル 飛行高度 3300~3660m
市街地 3.7平方キロメートル 離着陸時間
(日本時間)
1番機離陸 7月16日午後4時38分
工業地区 2.1平方キロメートル 最終機離陸 7月16日午後5時45分
当日の天候 曇り(雲と雲の間の見通し良)) 1番機帰着 7月17日午前5時58分
最終機帰着 7月17日午前8時28分
初弾投下時間 7月16日午後11時32分
最終投弾時間 7月17日午前1時12分
投下焼夷弾数 M47焼夷爆弾
(AN-M47A2)
41,706本
M50焼夷弾
(AN-M50 )
406,010本
447,716本
※出典は注記がない限り『作戦任務報告書』(米国立公文書館蔵)による。



【参考文献】
 夏期特別展図録「市民が探る平塚空襲-65年目の検証」平塚市博物館 2010年

 

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