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ひらつか歴史紀行 第31回

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ひらつか歴史紀行

 



第31回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その11・完(須賀・柳島にみる湊の世界)


 前回は津久井の山間地域の経済を支えていたもののひとつに須賀の廻船問屋たちの資金があったことをみてきました。津久井と須賀は相模川で結ばれた一つの経済圏でした。今回は今までのお話をまとめて、相模川河口の湊町である須賀・柳島の特徴・魅力を考えてみたいと思います。
 天保期(1830~1843)の須賀村は家数452軒を有する現平塚市域最大の集落であり、元禄期(1688~1704)には廻船関連業で2000人余の人々が生計を営む湊町でした。須賀村には廻船問屋や船乗り、穀物商や材木商とその従業員、港湾労働者など多くの廻船関連産業の人々が暮していたと思われます(その1)。
 さらに、他国から来た廻船の船乗り、甲州・津久井からの川船乗りなどが船宿に宿泊し、須賀と対岸の柳島は物資や金だけでなく、多様な地域からの人々・情報も集まったはずです。彼らのうち川舩乗りのなかには須賀村の廻船問屋を船宿として賭博に身を染め、預ったお金を使い込む者もいましたが(その6その7)、廻船の船乗りたちも船宿で問題を起こすことがあったようです。文政12年(1829)11月28日の夜、駿河国柳津城越(静岡県焼津市城之腰)十兵衛船の船乗り2人が、「酒狂」のうえ船宿である須賀村の廻船問屋浦田村右衛門を傷つける事件がおきました。村右衛門は重傷を負ったため、出訴して検使を願い、船乗りたちの国元の主人にも掛け合いにおよぶところでしたが、怪我が快方に向かい、須賀村の商人たちの仲裁もあって、十兵衛船の船頭・船乗りたちが村右衛門へ詫状を提出することで一件落着しました(個人蔵文書)。この事件が実際に「酒狂」から発生したかは不明ですが、諸国から多くの廻船・川船の船乗りたちが逗留し、また、廻船関連産業に従事する多様な人々が住む「消費都市」としての須賀村には、飲酒や賭博などさまざまな誘惑もあり、船乗りたちによるトラブルもしばしばあったと思われます。安永7年に預り金を使い込んだ太井村の川船乗りも目的地の厚木村ではなく、須賀で使い込んでしまいましたが、須賀村には近隣の農村や宿場とはまた違った魅力があったのであろうと思われます(その6)。

藤間柳庵が著した『太平年表録』
藤間柳庵が著した『太平年表録』(個人蔵)
 嘉永6年(1853)~明治5年(1872)までの期間に起きた政治・外交・社会的事件について、入手した情報や見聞した出来事が記録されている。

 一方、廻船はまた、文化人も生み出しています。柳島村の廻船問屋藤間柳庵(1801~1883)は、数多くの著作や筆跡を遺した在村文化人として知られています。彼の実名は善五郎といい、江戸の漢学者で書家であった秦星池に書を学び、自らも廻船業や村役人としての業務のかたわら、多くの漢詩などの書を遺しています。また、文芸作品以外にも多くの記録を記しており、たとえば『太平年表録』(茅ヶ崎市史史料集第5巻)では、異国船情報や長州戦争・戊辰戦争など見分した幕末の諸事件が書き留められています。藤間柳庵の書や著作の歴史的文化的意味の検討は今後の課題ですが、彼の文化活動の背景には廻船業により得た富や知識・情報・ネットワークなどがあったはずで、廻船が生んだ文化として考えていくべきだと思います。残念ながら須賀村の廻船問屋や商人たちの文化活動は知られていませんが、今後、彼らの文化活動の痕跡が見出される可能性もあると思います。
 以上のように、物流の結節点、人・物・金・情報が集散する須賀・柳島湊は、船乗りたちの活動から藤間柳庵のような文化活動まで廻船業を背景とした幅広い人間の営みが繰り広げられ、独特の世界が形成されていたと思われます。しかし、その具体相は残念ながら不明の部分があまりに大きく、今後の史料発掘と研究の進展が必要とされるところです。

  

【参考文献】
 2009年度秋期特別展図録「山と海を結ぶ道-相模川・相模湾の水運」

 西川武臣「近世の相模川・相模湾水運―津久井・須賀・柳島・神奈川―」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』33号 2010年)
 早田旅人「近世相模川・相模湾水運における須賀村の位置」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2013年)


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