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ひらつか歴史紀行 第29回

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ひらつか歴史紀行

 



第29回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その9(廻船の積荷)


 前回は須賀・柳島の廻船問屋たちが、荷主から荷物を受取り輸送する運賃積みだけでなく、自ら販売するために物資を購入する買い積みもおこなっていたこと、また、穀物商売・醸造業など多角的な経営に従事し、大変裕福であったことをみてきました。また、裕福であるがゆえに飢饉など村の危機に際しては窮民を救助することも期待されました。
 さて、今回は須賀・柳島の廻船の積荷についてみていきたいと思います。須賀村・柳島村には廻船問屋の経営帳簿など廻船経営の実態がわかる史料が一切残されていないため、積荷の詳細や実態を知ることはなかなかできませんが、天明元年(1781)に須賀の廻船と相模川の川船持ちたちとの間で取りきめられた運賃一覧によれば白炭・薪・角材・丸太・板・米などが書き上げられており(『茅ヶ崎市史』1巻No87)、これらが相模川を下って須賀から廻船で送り出された積荷といえます。
 反対に海から廻船で須賀・柳島湊に運ばれ、内陸に送られた物資については、明治3年(1870)に厚木町と須賀・柳島廻船仲間の間で取り決められた運賃一覧に塩・砂糖などの調味料、〆粕や干鰯などの肥料、茣蓙や傘、紙などの日用品、南京米などの輸入品が書き上げられています(『厚木市史』近世資料編(2)村落1 No138)。これらの積荷が須賀・柳島から厚木へ送られ、さらにその背後の村々へと送られることで、各地の生活・生産をが支えられていたことがうかがえます。
 また、廻船が難破した際に作成される破船報告書からも廻船で運ばれた積荷の実態を垣間見ることができます。嘉永7年(1854)11月の須賀村田中庄兵衛船(305石積み)の破船報告では、年貢納入の時期であったこともあり、平塚市域の村々から領主へ送る年貢米が多く見られます(写真)。ただ、年貢米は多くて29俵、少なくて1俵と少量づつ各領主へ運ばれており、これは破船による損失のリスクを分散するためと考えられます。そうしたなかで、豊田村市左衛門を荷主とした柏屋七郎右衛門行きの小麦100俵が目を引きます。柏屋七郎右衛門は後のキッコーマン株式会社の前身の一つである下総国葛飾郡野田町(千葉県野田市)の醤油醸造家です。相模から出される「相州小麦」は良質な原料として珍重され、野田の醤油醸造家などが大量に買い求めていました。そのため、須賀・柳島には大量の穀物がストックされており、万延元年(1860)の柳島村には2092俵もの大豆・小麦などの雑穀が保管されていました(茅ヶ崎市柳島個人蔵文書)。

嘉永7年(1854)11月 須賀村庄兵衛破船につき一札
嘉永7年(1854)11月 須賀村庄兵衛破船につき一札
 須賀村の田中庄兵衛の船が三浦郡毘沙門村(三浦市)沖で破船したことを伝える荷主への報告書。この文書から船は305石積であり、時節柄、積荷は平塚市域の村々の名主を荷主とした年貢米が多いことがわかるが、最後の箇条には野田の醤油醸造家である柏屋七郎右衛門(現キッコーマン株式会社の前身)に100俵の小麦が出荷されていたこと記されている(当館寄託)。

  

【参考文献】
 2009年度秋期特別展図録「山と海を結ぶ道-相模川・相模湾の水運」

 西川武臣「近世の相模川・相模湾水運―津久井・須賀・柳島・神奈川―」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』33号 2010年)
 早田旅人「近世相模川・相模湾水運における須賀村の位置」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2013年)

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