わたしたちは「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館です

ひらつか歴史紀行 第27回 相模川・相模湾水運と須賀の繁栄 その7 <meta content="IBM HomePage Builder 2001 V5.0.2 for Windows" name="GENERATOR" /> <SCRIPT language="JavaScript"><!--function SymError(){ return true;}window.onerror = SymError;var SymRealWinOpen = window.open;function SymWinOpen(url, name, attributes){ return (new Object());}window.open = SymWinOpen;//--></SCRIPT>

 

平塚市博物館公式ページ

ひらつか歴史紀行

 



第27回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その7(船筏乗り議定書)


 前回は高瀬船の船乗りたちについてみてきました。そのなかで太井村荒川組の船乗りの若者たちが厚木町へ届けるために預ったお金を須賀で使いこんでしまった事件を紹介しました。この事件は名主が彼らを訴える大事件となりましたが、それは、高瀬船が荷物だけでなく為替金や荷物の代金なども輸送しているため信用が重視され、その信用を失墜させ、「村方稼ぎの障り」になることが懸念されたからでした。
 そのため、船乗りたちの風紀を取り締まる議定書が江戸時代を通していく度も作成され、その信用の維持がはかられました。今回はその議定書の紹介から川船乗り・筏乗りの実態をさらにうかがってみたいと思います。

水神塔 筏乗講中奉納(相模原市二本松 八幡神社)
水神塔 筏乗講中奉納(相模原市二本松 八幡神社)
 相模原市二本松は津久井湖に水没した地域の人々が多く移転し、八幡神社も津久井町荒川から移転してきた。この水神塔は天明7年(1787)4月に太井村荒川組の筏乗講中が奉納したもので、右側面に「荒川 筏乗講中」と刻銘がある。

 実は前回みた使い込み事件が発生する3年前の安永4年(1775)閏12月、船筏稼ぎについて4か条の取り決めが定められていました。ただ全4条のうち2条は賭博の禁止で、特に最終条では「商売先にて博打諸勝負」の禁止が定められています(個人蔵文書)。おそらく、商売先で賭博に手を染め、預り金に手を出す船乗りがいたのでしょう。前回みた使い込み事件も、賭博に使い込んだ可能性が考えられます。
 また、寛政3年(1791)に作成された太井村荒川組の船筏乗りの議定書では、従来、高瀬船は上下二日で帰ってきたが、近年は三日もかかり、さらには
昨年は4~9日もかかるようになったと記されています。そして、そのため逗留先での雑用が運賃では不足し、船乗りの素行が悪くなり、為替金の使い込みなどの問題が生じているとして、10艘ある高瀬船を二組に分け、お互いに注意し、問題が発生したら組ごとで解決することが決められています。また、筏乗りも五人で一組を作り高瀬船乗りと同様にするとしています。さらに、須賀・柳島からお金を受取り帰るときは家に帰る前に受取人に渡すこと、下り船の時にお金を受取り送る際はすぐに受取人に渡し、受領書をもらって帰ることが定められ、万一問題が発生したら当人の家財で弁償し、不足分は組で弁償、それでも不足したら他の組も割合って弁償することが定められました(『神奈川県史』9巻No291)。

 ここでは特に川船乗りの須賀・柳島での長逗留と、お金の使い込みが問題とされています。須賀・柳島での逗留中に賭博や遊興で身を持ち崩し、顧客の金銭に手をつけることが懸念されていたと思われますが、逆にみればこのような実態があったのだと思われます。先にみた使い込み事件では厚木町の人に渡すべきお金を使い込んだ場所は須賀でした。そのため、船乗りたちの逗留先(須賀・柳島)での長逗留が警戒され、相互監視と預り金の届け先へ速やかな送付といった不祥事発生の抑止策、不祥事発生時の補償の仕組みが定められています。
 また、弘化4年(1847)・安政4年(1857)にも「船筏議定書」が作成されましたが、ここでも「商売先、または船筏乗り出先にて為替金請取り、博奕・賭之諸勝負等決して仕るまじく候」ことが定められいます。また、「冬の内、船の者火鉢持参仕りまじく候、若し、船中にて炭ぬき参り候ものこれあらば、過料銭五百文宛取り申すべく候」とも定められ、冬に船中の暖をとるため、船乗りが積荷の炭を抜き取ることが警戒されています(個人蔵文書)。また、安政4年の議定書では筏1枚につき24文を臨時出費等のために積立金とすることが定められ、保険のような仕組みも作られています。

 以上のように、川船乗り・筏乗りの素行を規律する議定書がいくどか作成されましたが、これは先述のように顧客のお金も預かる運送業者としての信用を維持する必要があったからでした。また、須賀・柳島での長逗留が懸念され、賭博の禁止が再三定められていますが、これは彼らのなかに須賀・柳島で賭博に手を染める者がいたことをうかがわせます。船筏乗りたちのなかで賭博に手を染める人が実際にどれほどいたかはわかりませんが、このような船筏乗りの議定書からは湊町である須賀や柳島が彼らにとって賭博や遊興などの誘惑も含めて魅力ある繁華街だったことがうかがえます。


【参考文献】
 2009年度秋期特別展図録「山と海を結ぶ道-相模川・相模湾の水運」

 西川武臣「近世の相模川・相模湾水運―津久井・須賀・柳島・神奈川―」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』33号 2010年)
 早田旅人「近世相模川・相模湾水運における須賀村の位置」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2013年)

前回記事    次回記事


ひらつか歴史紀行トップへ戻る

平塚市博物館トップページへ

平塚市博物館 254-0041 神奈川県 平塚市 浅間町12-41
電話:0463‐33‐5111 Fax.0463-31-3949

ページの先頭へ