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ひらつか歴史紀 第26回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その6

 

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第26回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その6(川船経営と川船乗り) (2011年5月号)


  前回は相模川を行き交う高瀬船の航行の様子についてみました。今回は高瀬船の船乗りについてみていきたいと思います。
  相模川水運の主役である高瀬船ですが、その経営や所有者の実態はよくわかっていません。太井村荒川組(相模原市緑区太井)の高瀬船については「津久井県村々より稼出候御運上荷物、船積み渡世に仕り来たり」と記された安永7年(1778)の文書があり、太井村の高瀬船は津久井地方から産出される荷物を船積みする運賃で経営していたことがうかがえます(個人蔵文書)。また、文政11年(1828)2月の太井村の取決めでは、村内の荒川組・北根小屋組・小網組の3集落のうち、高瀬船の所有は荒川組に限るが、人足は他組の者も相談に応じて雇うとされています(個人蔵文書)。高瀬船経営は荒川組の者しかできなかったが、船乗りなどの人足は村内の誰でも経営者との相談でなれたようです。

寛政11年(1799)4月21日 木挽山代金仕入金借用につき覚
寛政11年(1799)4月21日 木挽山代金仕入金借用につき覚
 須賀の米屋嘉兵衛から木挽き山仕入代金20両を借用した厚木町伝十郎の覚書。伝十郎は川船持ちであり、山からの荷物は嘉兵衛へ積み下げ、江戸へ送ることが取り決められている(当館寄託)。

 さらに、寛政11年(1799)4月、厚木町の川船持ち伝十郎は「木挽き山仕入代金」20両を須賀村の廻船問屋米屋嘉兵衛から借入しました(当館寄託文書)。川船持ちが須賀の廻船問屋から資金を借りて材木を伐採し、その木材は須賀まで出され、須賀から江戸へ送られました。この場合、川船持ちは山林経営にも関わっていたということになります。高瀬船の所有には船を購入し維持する費用がかかるため、経済的に豊かな人々が関わっていたのではないかと思われます。
 一方、実際に相模川を往来した船乗りたちですが、彼らについてもその実態は不明です。ただ、次にみる川船乗りによる預り金使い込み事件からその片鱗をうかがうことができます。
 事件は安永7年(1778)10月27日、太井村荒川組名主六郎兵衛が、高瀬船で荷物を川下げする百姓倅4人に2両を預け、厚木町の清田屋半兵衛へ届けるよう頼んだことに始まります。しかし、彼らは預った2両を「厚木町半兵衛方へは相届けず、須賀表へ罷り越し残らず遣い捨」ててしまいました。そして、11月、彼らは名主や村役人らから訴えられたのです(個人蔵文書)。この事件を起こした船乗りは4人とも百姓倅であり、船乗りは若者が担っていたことがうかがえます。
 なお、この事件で名主が訴訟を起こすまでになったのは、この事件がたんなる横領事件にとどまらず荒川組全体の高瀬船経営の進退に関わるからでした。訴えに対して使い込みをした4人は詫状を提出しましたが、そこで荒川組の稼ぎについて「船筏川下げ第一の場所にて稼ぎ商売仕り候へば、右荷物為替金などは勿論、登り荷物払い方などの金子、惣じて村方の者ども請取り通用仕り、これまで滞りなく相済み来たり候」と述べています。つまり、高瀬船は荷物だけでなく為替金や荷物の代金なども輸送しているというのです。相模川は物だけでなく金の道でもあったのです。それゆえに高瀬船の船乗りには信用が重要で、4人の金子使い捨て事件はその信用を失墜させ、「村方稼ぎの障り」になる重大事件だったのです。
 そして、この信用を守るため、船乗りたちの風紀を取り締まる議定が江戸時代を通していく度も作成されました。
次回はその議定から川船乗り・筏乗りの実態をさらにうかがってみたいと思います。

 


【参考文献】
 2009年度秋期特別展図録「山と海を結ぶ道-相模川・相模湾の水運」

 西川武臣「近世の相模川・相模湾水運―津久井・須賀・柳島・神奈川―」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』33号 2010年)
 早田旅人「近世相模川・相模湾水運における須賀村の位置」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2013年)


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