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ひらつか歴史紀 第25回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その5

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第25回 相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 その5(相模川を行く高瀬船)


  前回は相模川に設置された番所の紹介を通して相模川の水運の発展を考えてみました。今回はその相模川を行き交う高瀬船の航行の様子について見ていきたいと思います。

背張棒図解
(『相模川の高瀬船と帆掛船』平塚市教育委員会より)

  近世から大正末期まで相模川の水運の主役となったのが高瀬船でした。相模川の高瀬船は全長10~15メートル、幅1,5~3メートルほどの大きさで、須賀から上野原(山梨県上野原市)付近までを航行し、薪で約800貫(約3トン)、石で1000貫(約3,75トン)の荷物を運ぶことができたといいます。高瀬船は船首に丸い穴があいているのが特徴の一つで、帆走出来ないときはこの穴に背張棒という棒をさして一人が岸から川の中央に船を押しだしながら、もう一人が船に長い綱をつけてひいたといいます(【背張棒図解】参照)。
 明治期頃の小倉(相模原市緑区小倉)の高瀬船が須賀まで運んだ積荷には炭・薪・ソダコ・反物(木綿)などがありました。炭は中野(相模原市緑区中野)の木炭問屋から商人が買ったもので前日までに炭を取りに行き、小倉に留め置いて翌日下っていきました。薪は小倉の人が船着場(小倉橋の下付近)まで出しておきました。ソダコは川の堤防工事に使うもので村の人が山から伐り出し、船着場まで出しておいたのものを積みました。反物は半原(愛川町半原)や中野から運ばれてきたものでした。
 船は早朝、小倉を出て厚木・須賀と一日がかりで下り、帰り(上り)には須賀から肥料・米・味噌・魚などを積んで帰ったといいます。南風が吹く春から夏には帆を使って上りました。南風が強ければ6時間位で小倉まで着きましたが、風がない季節などには3日も4日もかかったといいます。山の雲などで天気をみて風待ちをして帰ったといいます。
ただ、帆が使えるのは小倉までで、小倉から上流は川が西へ向かって曲がっているため曳き綱をひいて上っていきました。
 帆を使って上るときは舵と帆の向きで船を操って上り、操作を誤ると川原に乗り上げることがあり船頭は大変でした。しかし、冬、北風が吹くときはさらに大変で、一人が背張棒を船の舳先にさして岸から押し、もう一人が曳き綱を船につけてひいて上りました。素足にワラジ・ハンモモヒキで足についた水が凍るほどであったといいます。須賀をひいて出ると、田村(平塚市田村)で泊り、厚木で泊り、上依知(厚木市上依知)で泊って、次の日に小倉に着いたといいます。(『相模川の魚と漁-相模川流域漁撈調査報告書-』)

塩・味噌を積み帆をあげて遡上する高瀬船(模型) 炭・薪を積み川を下る高瀬船(模型)
塩・味噌を積み帆をあげて遡上する高瀬船(模型) 炭・薪を積み川を下る高瀬船(模型)


【参考文献】
 『相模川の魚と漁-相模川流域漁撈調査報告書-』(平塚市教育委員会 1978年)
 2009年度秋期特別展図録「山と海を結ぶ道-相模川・相模湾の水運」

 西川武臣「近世の相模川・相模湾水運―津久井・須賀・柳島・神奈川―」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』33号 2010年)
 早田旅人「近世相模川・相模湾水運における須賀村の位置」(『平塚市博物館研究報告 自然と文化』36号 2013年)


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