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ひらつか歴史紀 第19回 幕末の村おこし竏瀦ミ岡村の報徳仕法 その8

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第19回 幕末の村おこし竏瀦ミ岡村の報徳仕法 その8(克譲社仕法の展開)


  前回は大澤兄弟が定めた「家株永安相続議定書」をみました。今回は大澤兄弟により結成された克譲社による報徳仕法をみていきたいと思います。

  嘉永3年(1850)3月の「家株永安相続議定書」を作成した年、大澤小才太の末弟政吉が湯本村(箱根町)の福住家の養子となり、九蔵(福住正兄)と改名し、二宮尊徳・片岡村仕法・真田村仕法から資金譲渡を受け、湯本村での仕法に着手しました。これにより、大澤兄弟が運営する仕法は片岡村・真田村・湯本村の三つになりました。

「御趣法金惣寄取調帳」の裏表紙
 「御趣法金惣寄取調帳」の裏表紙
天保9年(1838)縲怏テ永6年(1853)までの仕法収支状況を書きあげたもの。裏表紙に「克譲社同盟」として大澤兄弟の名前が記されている。(個人蔵)
 

 そして、嘉永5年正月、片岡・真田・湯本の各仕法が合流して「克譲社」として結社し、兄弟五人で運営することになりました。
 「克譲社」の命名者は福住正兄です。正兄は「克譲社」の社名を考案したとき、尊徳高弟の富田高慶に「克譲」は中国の伝説上の帝王である堯の大徳を表した熟字であり、一仕法の号とするには分に過ぎると批判されました。しかし、正兄が尊徳に相談したところ、「片岡村のごとき、小は小なりといへども、一家の余財をもって、一村に及ぼし、近村に及ぼす、克譲というも不可なかるべし」と言われ、社名を「克譲社」に決定したといいます(『富国捷径』首巻)。「克譲」とは「よくゆずる」という意味で、大澤家の仕法が縁戚と関係を持ち、他村へと波及する仕法のあり方を社名にしたといえます。

 さて、克譲社の結成により、片岡・真田・湯本の各村で実施されていた仕法の資金が一体化し、仕法の性格はそれまでの片岡村一村の復興に向けたものから大きく変わっていきました。
 たとえば、無利貸付金の融資対象者の居村は片岡・真田・湯本・南金目・大畑・伊勢原・大竹・吉田島・怒田と広がりをみせました。さらに、湯本村では「村」にたいして融資が行われ、それをもとに村で「窮民潤助仕法」を実施するなど、克譲社の資金による新たな仕法の展開もみせました。
 また、家政再建を目指す大澤家の縁戚や報徳関係者への巨額融資は続けられましたが、彼らの土地が仕法田畑として大規模に買い上げられたのも新たな動向です。彼らの田畑を克譲社が買い上げることには、その田畑を仕法財源にするとともに、彼らの土地が転売されることで家政再建が困難になることを防ぐ意味があったと考えられます。彼らはみな地域の経済的な有力者であり、克譲社による彼らへの融資や田畑の買い上げなどの家政再建支援は、大澤家縁戚の救済であるとともに、彼らの経営破たんによる地域経済秩序の動揺を防ぐ意味もあったと考えられます。
 こうしたことから、克譲社とそのネットワークは、報徳思想や縁戚で結ばれた地主・商人間の相互扶助により維持された地域経済秩序を基盤に、村や一般百姓への無利貸付金などを通して困窮者層の救済もはかるという構造をもっていたと思われます。そして、この構造のもと、地域経済を底上げし、地域の総体的な復興を試みることに、そのねらいがあったと考えられます。


【参考文献】
 2006年度春期特別展図録「幕末の村おこし竏駐{尊徳と片岡村・克譲社の報徳仕法」
 早田旅人「近世報徳『結社仕法』の展開と構造竏酎鰹B片岡村・克譲社仕法からみる地主仕法の再検討竏秩v(『関東近世史研究』63号 2007年)

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