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ひらつか歴史紀 第18回 幕末の村おこし竏瀦ミ岡村の報徳仕法 その7

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第18回 幕末の村おこし竏瀦ミ岡村の報徳仕法 その7(「家株永安相続議定書」の作成)


  前回は片岡村で実施された報徳仕法の成果をみてきました。今回は本格的仕法が開始して10年たって定められた「家株永安相続議定書」をみていきたいと思います。

  
 天保11年(1840)の報徳仕法の本格的開始から10年目の嘉永3年(1850)3月、大澤兄弟は報徳仕法を永続していくための規則である「家株永安相続議定書」を作成しました(なお、天保14年に兄弟の父市左衛門は死去していました)。
 この議定書を作成するにあたり、大澤小才太はどうすれば報徳仕法を継続できるか考え、仕法実施以前の10年間における大澤家の小作米収入を調べました。すると、その10年間は大澤家に納められるべき小作米のうち年平均して20.93%の米が不納となっていたことがわかりました。そこで、小才太は大澤家に納められる小作米のうち、報徳仕法の成果で得られるようになった従来の不納分の割合である20.93%の小作米を今後、仕法の財源として拠出し続けることを、兄弟とともに「家株永安相続議定書」として定め、仕法を実施することになりました。つまり、報徳仕法の成果として大澤家に納められるようになった小作米を、自己のものとせず、それを仕法財源として再分配することを決めたのでした。

【図1】「家株永安議定書における大澤家小作米の使途」
【図1】「家株永安議定書における大澤家小作米の使途」
 

 「家株永安相続議定書」は全部で9か条からなる議定書ですが、その骨子となる条文の内容を少しみてみましょう。
 まず、第1条には、年ごとの増減があっても大澤家小作米の全収穫高のうち20.93%は「平均土台外」として「御趣法土台米」に拠出して仕法を実施することが定められています。前述の仕法資金のねん出方法です。
 また、第5条には大澤家の生活費・年貢は大澤家の収入のうち仕法財源として差し引いた20.93%の残りの79.07%で賄うことが定められています。これが報徳仕法でいうところの「分度」です。大澤家は「分度」内の収入で生活費・年貢をまかない、「分度」外の収入は仕法資金に拠出=「推譲」することになります【図1】。
 さらに、第6条には大澤家が生活のために米を換金する際は1石につき1両で換算し、相場違いによる差益が出た場合は「非常用意備金」として積み立て、使い道がなければ仕法資金に組み入れることが定められています。この時期の米相場は1石1両以上であり、時代が下るほど米価は上昇する傾向にありました。大澤家はあえて1石1両替えと定めることで非常時に備えた余剰を出そうとしていたことがわかります。
 以上のような規則を大澤小才太・大澤勇助・上野七兵衛・陶山半次郎・大澤政吉の兄弟の連名で定めました。この議定書はその名前に「家株永安相続」との言葉があるように、大澤家の安定した永続を願って定められたものといえます。つまり、大澤家は家の永続には報徳仕法が必須だと考えていたことがわかります。実は、この議定書を実施後、大澤家の実質収入は仕法への拠出金や年貢の増加などにより報徳仕法導入以前より減少しました。しかし、そこには実質収入が減少したとしても、村や村人の生活が安定することにより、自家が安定して存続できることを志向する報徳仕法の考え方がうかがえます。
 この後、この兄弟により「克譲社」が結成され、その後の仕法が運営されます。


【参考文献】
 2006年度春期特別展図録「幕末の村おこし竏駐{尊徳と片岡村・克譲社の報徳仕法」
 早田旅人「近世報徳『結社仕法』の展開と構造竏酎鰹B片岡村・克譲社仕法からみる地主仕法の再検討竏秩v(『関東近世史研究』63号 2007年)

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