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ひらつか歴史紀 第15回 幕末の村おこし竏瀦ミ岡村の報徳仕法 その4

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第15回 幕末の村おこし竏瀦ミ岡村の報徳仕法 その4(報徳仕法の開始)


  前回は大澤父子と二宮尊徳との出会いについてみていきました。今回は片岡村の報徳仕法の開始をみていきたいと思います。

  さて、前回、大澤父子は尊徳と会った時、尊徳から村が衰える根本の原因は富者・貧者の不和であり、富者たる大澤家は生活を緊縮し、その富を再配分すべきことを諭されたことをみました。
 大澤父子はこれを受け、
「余りある者、足らざる者を補うの天理なる事」を悟り、天保9年(1838)9月、自らの手で仕法を実施することにしました。

天保9年11月『三才報徳現量鑑』
天保9年11月『三才報徳現量鑑』
 片岡村の報徳仕法の第一年目の仕法の内容が記録された帳簿(個人蔵)

 まず、大澤父子がおこなったことは大澤家に長年奉公していた困窮者に「助成田地」を与えたり、村民が質入れした「夜着」・「蚊帳」・「大鋸」・「万鍬」など生活用具・生産用具を請戻して無利息で貸し与えたり、村民が領主から借りていた借金を立て替えてやるなどの事業でした。まずは、困窮者の生活基盤の整備というところでしょうか。また、大澤小才太の弟の真田村七兵衛の家政再建仕法を願うために、小田原藩の報徳仕法への献金もおこなっています。これらの事業に要した費用は390両余にものぼりましたが、これらは大澤家が支出、借金をしてまかないました。
 翌天保10年には、村内の困窮者や帰村して就農を望む人々へ「居宅修復」・「農具手当」・「夫食助成」などの各種助成金を給付し、無利息金を融通するなど、困窮者や帰村者の就農を支援する事業を広げていきました。これらの費用も大澤家の拠出と借金でまかなっています。
 この天保9・10年の大澤家による初期の仕法ですが、大澤家の資金拠出で困窮者の救済がおこなわれるとともに、大澤家の一族の地主家(真田村七兵衛)の家政再建も視野に入っていたことが後の仕法の展開を考えるうえで注目されます。
 さて、尊徳の教諭を受けた大澤父子が試験的に自分の手で片岡村の復興仕法をおこなったことで、「一先ず凌ぎの道は相開け候」という成果をみせました。しかし、いまだ村内に困窮者は多く、誰から先に救済すべきかなど、今後の仕法の進め方について悩んでいました。そこで、大澤父子はこれまでの仕法の成果報告もかねて、再び二宮尊徳のもとへ相談に行きました。
 大澤父子の報告を受けた尊徳は父子の村復興に向けた熱意を認めました。そして、彼らに村内で働き者や村民の手本となる者を村民の入札で選び、高位者に田畑を無年貢で耕作させる「出精人取立仕法」の実施を提案しました。なお、田畑の無年貢耕作といっても、実際にはその田畑には領主から年貢がかけられており、その年貢を大澤家が肩代わりするという意味です。ともあれ、ここで大澤家による片岡村の仕法は二宮尊徳の認めるものとなり、天保11年正月以降、「先生御指図を蒙り、村柄取り直し方趣法取り行い候」と尊徳の指導を得て本格的な仕法が実施されることになりました。
 


【参考文献】
 2006年度春期特別展図録「幕末の村おこし竏駐{尊徳と片岡村・克譲社の報徳仕法」
 早田旅人「近世報徳『結社仕法』の展開と構造竏酎鰹B片岡村・克譲社仕法からみる地主仕法の再検討竏秩v(『関東近世史研究』63号 2007年)

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