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ひらつか歴史紀 第11回 元禄南関東大地震と平塚宿の被害

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第11回 元禄南関東大地震と平塚宿の被害


  前回平塚市域に残された道中日記から江戸時代の旅の様子をみました。今回は、平塚を旅した人が道中日記に記した平塚宿の地震被害をみていきたいと思います

  元禄16年(1703)11月23日、南関東で大地震が発生し、各地に大きな被害を出しました。平塚市域でみると金目川周辺では「家居残らず潰れ、田畑大分普請所多く」(当館寄託文書)と家屋の倒壊と耕地の荒廃という被害が発生しました。また、金目川も「地震以来、川瀬大分高く罷り成り、少しの水にも堤押し切れ申し候」(『平塚市史』4巻43号資料)と川底が高くなり洪水が発生しやすい状態となりました。相模川河口の須賀村では「津波にて押埋、船かけ場御座なく」と津波により港としての機能が損なわれる被害を受けました。
 
平塚市域でこのような被害が確認できる元禄地震ですが、この地震の直後に平塚宿を通行した人物の道中日記が残されています。それは京都下賀茂神社の社家である梨木祐之の道中日記です。彼は江戸から京都へ帰る途中、戸塚宿で地震に遭いました。その後様子をみたのち戸塚宿を出立し、11月26日に平塚を通行し、この時を様子を日記に記しています(藤沢市史料集31『旅人がみた藤沢』(1))。
 まず、彼は馬入の渡しで地震により「舟共沖へ浪にとられたり」として地震当日の23日の夕方は1艘だけで旅客を渡したという話を聞いています。もっとも、彼が渡る26日にはどこからか渡船を調達したらしく3艘の舟で渡船していました。しかし、潮が満ちているとのことで「半里計川上へまわりて舟に乗也」と2Kmほど上流に上って渡ったといいます。
 相模川を渡ると馬入村は「残りたるいゑもなく、みな頽れてみへ渡る」と全ての家が倒壊しているのが見えました。「やわた町」=平塚新宿では松並木の倒壊は見られませんでしたが、「町屋は馬入村とおなじ」と家屋の倒壊は馬入村同様でした。平塚宿もやはり「残りたる人家なし」という状況でした。
 彼は平塚宿である話を聞き、それを次のように書きとめます。
 「十四歳になる男子、家におされたるを父母あはてまどひて、其子の両の手を取て引出さんとしたりければ、左右の腕を引抜たり」
 平塚宿の十四歳の男の子が家の下敷きになり、両親があわててその子の両手を取って引出そうとしたら、両腕が抜けたというのです。この話を聞いて彼は「父母の哀悼悲歎、たとへん方もなしとぞ。聞にだに堪がたき事」と感想を述べています。平塚宿の地震の悲劇の一こまといえます。
 さて、平塚宿を出て花水橋を渡ると花水橋に被害はなかったようですが、「橋つめの地形大に裂破て、溝洫のごとし」と橋のたもとの地面は大きく亀裂が生じ、水路のようになっていたといいます。また、「凡そ海道の大地裂破たる所に、悉泥水湧出せり」とも記しており、東海道沿いで地面に亀裂が生じているところにはみな泥水が湧き出していると液状化現象を記しています。そのほか「海道の右方の山々も崩れたる体あまた所みえたり、木なども多倒れたり」と高麗山などの山々が崩れ倒木がみられると記しています。
 以上、300年前の大地震の平塚での被害を当時の人の目で見てみました。液状化現象について現在の平塚市域でも特に河川付近での可能性が指摘されているように(平塚市博物館『平塚周辺の地盤と活断層』2007年)、災害は決して過去のものではありません。常日頃から防災を心がけたいものです。


【参考文献】
 藤沢市史料集31『旅人がみた藤沢』(1)
 2004年度春期特別展図録「近世平塚への招待竏抽ル蔵資料でみる23題」
 2007年度夏期特別展「平塚周辺の地盤と活断層」
 第100回記念特別展図録「金目川の博物誌」 

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