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ひらつか歴史紀 第8回 「平塚」の伝説的女性竏秩u大磯」の虎とその周辺 その1

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第8回 「平塚」の伝説的女性竏秩u大磯」の虎とその周辺 その1 (2009年11月号)


  前回は4人の「平塚の伝説的女性」について考えてみました。

  そのなかで、「大磯」の虎は平塚生まれで平塚育ちの女性であること、4人のなかで最も実在の可能性が高い女性であること、を述べました。
  そこで、今回はこの虎を取り上げ、彼女と彼女があらわれる『曽我物語』の周辺について考えてみたいと思います。
  まず、『曽我物語』ですが、『曽我物語』は伊豆に領地をもっていた一族の領地争いから、父を殺害された曽我十郎・五郎の兄弟が、父の仇工藤祐経を討つ仇討物語です。最も古いとされている真名本『曽我物語』は全10巻で構成されいます。第1巻では兄弟の父河津祐通が殺害されます。第2巻では兄弟の母が二人をともなって曽我祐信と結婚します。ここで二人は「曽我兄弟」になります。第3巻では頼朝と対立していた祖父伊東祐親が頼朝の東国制覇のなかで自害します。第4巻は兄弟の成長過程で兄十郎(一万)が元服し、弟五郎(箱王)は箱根へ修行に入ります。しかし、敵討ちの思いが強く兄の誘いにより下山します。第五巻では五郎も元服し、十郎が虎となれそめます。第6巻では仇討のため十郎が虎と別れ、兄弟で母にも別れを告げます。第7巻以降、兄弟が富士の裾野の狩場へ出立、紛れ込み、工藤祐経を追い、第9巻で祐経を討ち果たした後、兄は討たれ、弟は捕えられて翌日斬首されます。そして、第10巻は兄弟死後の虎による廻国供養、虎の往生で終わります。全10巻で流れる年月は17年余に及びますが、5巻以降は兄弟が死ぬ一ヶ月間、第九巻は仇討の日1日で1巻を費やしています。ここから、この物語の関心が兄弟の死と死の直前にあることがわかります。
 そのなかで虎は十郎の恋人として現れ、兄弟の死後を供養する女性として描かれます。そして、『吾妻鏡』に虎があらわれるのも兄弟の死後です。『吾妻鏡』に虎は2回、次のようにあらわれます。

  「(建久4年(1193)6月1日) 曽我十郎祐成が妾大磯の遊女(虎と号す)、これを召しださるといへども、口状のごとくば、その咎なきの間、放ち遣はされをはんぬ(原漢文)」
  「(建久4年6月18日) 故曽我十郎は妾(大磯の虎、除髪せずといへども、黒衣の袈裟を著る)、亡夫の三七日の忌辰を迎へ、箱根山別当行実坊において仏事を修す。和字の諷誦文を捧げ、葦毛の馬一疋を引き、唱導の施物となす。件の馬は祐成最後に虎に与ふるところなり。すなわち今日出家を遂げ、信濃善光寺に赴く。時に十九歳なり。見分の緇素悲涙を拭はずといふことなしと云々(原漢文)」

  最初の記事は虎が詮議の場に召し出され、無罪として放免されたことが記されています。後の記事は虎が箱根で十郎の供養を営み、葦毛の馬を捧げ出家を遂げたこと、また、彼女が信濃善光寺へ赴いたがこれを見聞した人が涙を流したこと、時に19歳であったこと、が記されています。
 このように、『曽我物語』だけでなく、鎌倉幕府の正史である『吾妻鑑』にも虎が記されていることが、虎の実在性を高めています。しかし、この虎の行動や『曽我物語』の構成には意味があるように思われます。そのことについて、次回以降、みていきたいと思います。

【参考文献】
 『虎女と曽我兄弟 報告書』(ふるさと歴史シンポジウム実行委員会 2005年)


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