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ひらつか歴史紀行 第1回 平塚宿の概要

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第1回 平塚宿の概要 (2009年4月号)


  平塚市の市の名前の由来は、いうまでもなく平塚宿から来ています。
 
近世の平塚宿は慶長6年(1601)、徳川家康による東海道整備とともに成立した宿で、元和9年(1623)に川崎宿が成立すると、日本橋から七番目の宿となりました。宿とは街道の荷物や人馬の継ぎ立てをおこなう交通集落で、地子(地税)が免除されるかわりに公用で必要とする人馬(100人・100疋)を常備し提供する義務を負いました。

文政8年(1825)地誌取調書上帳(平塚市博物館蔵)

 近世の平塚宿の様子を知る史料に「地誌取調書上帳」があります。これは文政8年(1825)、平塚宿役人が、幕府の地誌編纂事業をおこなう地誌調所へ提出した調書で、項目ごとに調査内容が記されています。これによると、平塚宿・平塚新宿合せて石高952石3斗2升7合、家数414軒、総人数2038人でした。また、慶安4年(1651)、八幡村の一部が八幡新宿村として平塚宿の加宿となり、明暦元年(1655)に平塚新宿と改称した経緯も記されています。加宿とは宿の負担を軽減するため周辺の村を宿駅に加えたもので、平塚宿における人馬継立・交通量の増加がうかがえます。

 なお、神奈川県内には東海道の宿は9つ(川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根)ありましたが、そのうち、平塚宿は家数で8番目の規模の小さな宿場でした。また、大磯宿−平塚宿の間の距離が27町(約3km)しかなく、東海道の宿場間で御油宿−赤坂宿の間(16町)、石薬師宿-庄野宿(25町)に次ぐ3番目の短さであることも特徴といえます。また、旅行者が江戸や京都から東海道を通る場合、小田原や戸塚・保土ヶ谷などに宿泊し、平塚宿は休憩地として利用されることが多かったようです。
次回は平塚宿の成立事情を考えてみたいと思います。

文政8年(1825)「地誌取調書上帳」の主な項目
項目 内容
平塚宿石高 692石8斗9合
平塚新宿石高 259石5斗1升8合
田畑比率 田30%、畑70%
地子免許(地税免除地) 1万坪
家数(新宿含む)) 414軒
人数(新宿含む) 2038人
日本橋〜平塚宿の距離 15里半(約60.4km)
東西距離(新宿含む) 19町5間(約2.1km)
南北距離(新宿含む) 24町(約2.4km)
定助郷高 12331石
支配 江川太郎左衛門代官支配所

 

参考文献:2004年度春期特別展図録「近世平塚への招待−館蔵資料でみる23題」

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