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相模平野の地盤

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相模平野の地盤



■相模平野を作る沖積層
 平野の地下の様子はふだん見る事ができませんが工事現場や遺跡調査で、現在の微地形を作っている表層の地層を時に見ることができます。市域の平野の南半部を占める砂州・砂丘地帯では、表土の下に淘汰の良い厚い砂層が見られます。一方、自然堤防は河川により運ばれた砂礫層や砂層からなり、その上に茶褐色の腐植土が重なっています。河道に近いところほど粗く、四之宮の自然堤防では礫混じり砂層が見られました。後背湿地では河川が氾濫した細かな泥が堆積しています。砂丘や砂州列の間の堤間凹地でも、同様の腐植質の泥層が薄く重なっています。
 こうした表層を作る地層より下位の地層の様子は、建造物を建てるときに行われるボーリング調査により知る事ができます。数多くの柱状図を整理してまとめてみると、相模平野を作る地層(沖積層)は上位より、相模川や金目川の氾濫による河成の泥層・両河川による礫層・海浜に形成された砂州と砂丘を作る砂層・海浜に堆積した砂礫層・浅海に堆積した厚い砂層・内湾に堆積した泥層・最下部に見られる厚い河成の礫層に区分することができます。
■氷期から縄文海進期へ
 こうした沖積層は、1.8万年前の最終氷期以降、海面の上昇に伴って形成されたもので、日本各地に見られる平野を作っています。平塚では、標高0m付近までのボーリング資料に貝殻片が数多く含まれています。東豊田や徳延のポンプ場建設の際には、たくさんの貝化石が産出し、中には現在有明海以南にしか生息していないハイガイという二枚貝が含まれています。6000年ほど前には、現在より2度ほど気温が高く、海面が現在より数m高かったと言われています。この温暖期を縄文海進期といいます。平塚市域では、この時期には、平塚市北部まで海に覆われていました。
■平野に埋もれた地形
 相模平野を作る沖積層の基底の高度を、博物館所蔵のボーリング資料などから調べてまとめました(下図)。この図は平野に埋もれた地形、すなわち平野ができる前の約2万年前の地形を示しています。これを見ると、相模川は、現在とほぼ同じ場所を流れていますが、高度は-80m以上も低く、深い谷を刻んでいました。金目川は現流路とは全く異なり、豊田から中原を通り、馬入付近で相模川に注いでいたことがわかります。飯島から旭地域にかけては、-10m程の広い平坦面が見られます。城島から豊田にかけても、同様の平坦面が見られます。これらは縄文海進によって作られた波食台と考えられます。
■平塚の地下断面
 こうした2万年前以前の地形を、縄文海進の堆積物が覆って平野を作っています。下に、相模平野を東西・南北に横断した地下断面図を掲げます。砂州・砂丘地帯では上部に厚い砂層が堆積していることが特徴で、最大で40mもの厚さがあります。川沿いでは相模川や金目川の氾濫原の泥層や旧河床を示す礫層が見られますが、その下位には砂層が見られます。これらの下位にはやや沖合に堆積した泥層が厚く堆積しており、最下部には礫層が続いています。
 こうした地層の断面から平野の形成史は次のように考えられています。2万年前頃は、最後の氷河期であるウルム氷期の海面最大低下期にあたり、相模川は勾配が急で河口まで礫を運び、最下部の礫層が堆積しました。当時の海面は−120〜130mにあったと考えられています。その後の海面の上昇と共に下部の砂礫層、中部の泥層、上部の砂層と次第に堆積していきました。上部砂層は新幹線沿い以南で厚く連続しており、最大海進時には開いた海が新幹線付近まで広がっていたことを示しています。その後、砂堆が南側に順次発達し、砂堆の北側は閉じた水域、あるいは陸域となって泥質堆積物が堆積し、さらに、相模川や金目川の河川の氾濫により埋め立てられました。

砂丘の砂層 自然堤防の砂層
▲粒の揃った砂丘の砂層
▲礫の混じる自然堤防の砂層
砂丘間凹地の泥層 縄文時代の貝化石
砂丘間凹地の泥層
▲地下から産出した縄文時代の貝化石。矢印はハイガイ(平塚市東豊田)
相模平野地下断面図
▲相模平野の地質断面図
    上:吉際〜高浜台南北断面、 下:北金目〜四之宮東西断面

沖積層基底地形
▲相模平野の沖積層の基底地形


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