2 もっと知りたい私たちのまち
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●昭和 22年の航空写真から分かること

 昭和22年に米軍が撮影した航空写真には、軍都平塚の面影が強く残されています。現在の総合公園の位置には、海軍火薬廠の施設が塀で囲まれていて、戦時中とほぼ同様の外観をとどめています。海岸付近にクレーターのように見えるのは須賀の高射砲砲台で、市域には軍需施設を防御するための砲台が8カ所に設置されていました。空襲を受けた市街地にはバラックの家々が建ち並び、旧第一・第二国民学校(現崇善・港小)の校舎は焼失したままです。やがて昭和26年、空襲の痛手からようやく立ち直り、第1回七夕まつりが開催されます。七夕まつりは、戦災から復興し発展する平塚市の象徴でありました。
 昔の航空写真からは、地形と土地利用の関連を読みとることもできます。国道一号線付近は砂丘列間の低地で水田に利用され、八幡から馬入にかけて築かれた内土手の外側は相模川の氾濫原のため住宅はありませんでした。それぞれの土地がかつてはどんな地形で、どのように利用されていたのかを知る上で、昔の航空写真は大きな手がかりを与えてくれることでしょう。


昭和 22年の平塚市

●旭地区の変貌
 かつての旭村は水田が広がり、丘陵は畑や谷戸田、雑木林として利用されていました。昭和29年に平塚市と合併時の旭村は600戸でしたが、平成17年の旭地区は約15.000戸を数え、50年間で世帯数が25倍に増加したことになります。高度経済成長期は有史以来の激変の時代であったといえるかもしれません。新旧の航空写真を比較すると、水田を埋め立てて団地が建設され、丘陵を造成して新興住宅地ができたことがわかります。22年の写真では旭小学校と出縄の丸山がよく目立ちますが、現在は周囲に住宅が増え、地図上では容易に確認できなくなりました。
 農地や自然は年々減少しているものの、市の北部には水田が広がり、西部丘陵には里山のたたずまいが残されています。緑豊かな環境は私たちの目を楽しませ、心を和ませてくれます。都市化が進むほど、身近にある小さな緑が貴重な存在になります。


昭和22年の旭村


平成15年の旭地区


平成15年の平塚市中心部


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