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町屋の相模川橋脚

平塚の地形地質 (4.平塚・平野の地形)

町屋の相模川橋脚

最終更新 1998年5月

大正12年(1923)9月1日と翌13年1月15日の関東地震により、小出川東岸の下町屋の水田に古い橋脚が10本程出現しました。これは地震による地盤の液状化により、橋杭が抜け上がったものと考えられています。この橋脚は鎌倉期の武将 稲毛三郎重成が亡妻供養のため、建久9年(1198)にかけた橋杭であるといわれ、国の史跡に指定されています。  明治期の地図を見ると、小出川はこの下町屋で向きを南東へ変え、千の川と合流して、南湖の砂丘地帯を削り込んで流れています。また、荻園から流れる河川は下町屋で大きく蛇行し相模川に注いでいます。橋脚が出現した位置はまさに明治期の小出川の河道にあたり、荻園から流れる河川の曲流部に非常に近い場所にあたります。微地形分類図から見ると、ここでの旧河道の幅は約200m程あります。 自然堤防や旧河道が良く発達していることから考えると、かつては相模川の流路であったものと推定されます。それが鎌倉時代であったかどうかは不明ですが、少なくとも相模川の分流の流路であったか、小出川の流路であったことは間違いありません。橋脚はN50E(北から50度東)方向に並んでおり、川は北西から南東へ流れていたと推定されます。当時の流路は明らかに現在の流路(北北東−南南西)とは異なっていた訳です。

町屋の相模川橋脚





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