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真土大塚山古墳と砂丘

平塚の地形地質 (4.平塚・平野の地形)

真土大塚山古墳と砂丘

最終更新 1998年5月

 真土大塚山古墳は昭和47年の地形図では標高20mありました。現在では日産車体真土寮となり、その面影はありません。古墳を発掘調査した記録では、古墳自体は東西30m・南北33m・高さ9mとされています。砂丘地形の高まりを利用して造られた古墳という訳です。市域の砂丘列は東海道線以南の地域を除くと、真土から中原にかけての地域が最も高い砂丘列となっています。平塚の砂丘列で最も早く形成され、最も高いこの砂丘列は、古墳の立地条件としては最適だったのでしょうか。  県内で最も古く、4世紀後半に作られたとされるこの古墳は、京都の椿井大塚山古墳を中心として広く分布する同笵鏡(同じ鋳型から作った鏡)を出土したこと、前期の古墳には珍しい砂丘に立地しているという点で、発掘当初から注目されていました。しかし、墳丘の崩壊や後生の削平で、円墳とも前方後円墳とも前方後方墳とも判断がつかない形になってしまいました。  出土した三角縁神獣鏡という銅製の鏡は、大和朝廷の強力な政権と何らかの関係を結んだ首長たちに、その証として与えられたとされ、地域を統括する首長層の存在と、その権力を支える経済的基盤の存在を示唆することとなります。  当時の経済的基盤には、豊かな水田とそれを経営する技術、そして労働力の三者が不可欠です。つまり広大な水田用地と居住空間が必要になるわけです。真土大塚山古墳の築造が支配下の人々に対する示威効果をねらったものと考えると、他の前期古墳のように丘陵尾根筋ではなく、沖積地の真ん中に出現した理由も納得できそうです。北側に広がる後背湿地からなる水田地帯と、南側に広がる砂州砂丘からなる居住地帯の中間に位置し、東側を流れる相模川を望む絶好の場所にあるのはそんな理由からでしょうか。

真土大塚山古墳の地形(日野1962による)

かつての真土大塚山古墳の全景
(昭和36年日野一郎氏撮影)




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