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南原・中原の砂州・砂丘列と下田川低地

平塚の地形地質 (4.平塚・平野の地形)

南原・中原の砂州・砂丘列と下田川低地

最終更新 1998年5月

この地域の砂州・砂丘地帯は達上池付近から東北東に延びる下田川低地を隔てて大きく南北に分けられます。この下田川低地は、現在では総合公園などにより大きく地形が変わってしまいましたが、古い地形図でみるとかつては水田が広がっていました。市民病院付近にわずかにその名残がみられます。大原にあるこの低地内の遺跡では、弥生時代の水田の跡と考えられる遺構が見つかっており、かなり古くからこの低地が利用されてきたことがうかがえます。  低地の南側の地域は、諏訪町から達上ヶ丘へかけての標高8〜9mの砂州からなる地域です。現在では、高まりとしてはほとんどわかりません。下田川低地の北側の地域も、同様の砂州からなりますが、高まりは区別できなくなっています。中原小学校の北側から南原善徳寺北側にかけて幅 100m程の凹地が見られます。この凹地は東方神明中学校付近から延びる谷川の低地の続きと考えられます。現在では凹地は中原で途切れ、谷川も人為的な流路となり北側の砂丘列を横断し、中原橋付近で渋田川に合流しています。  この谷川低地の北側には、渋田川に沿ってかなり突出した砂丘が広がっていました。中原日枝神社はまだ、その面影を残しています。その北東の中原3丁目にある伊勢山には、昭和22年の地形図で標高17mになる砂丘がありました。  こうした、中原付近の砂州砂丘地帯には古くから人々が生活してきたようすが、遺跡から知る事ができます。伊勢原県道の建設に先立って行われた中原上宿遺跡の発掘では弥生時代後期から平安時代にかけての多くの遺跡や遺物が発見されています。

中原に残る谷川の名残(大松寺北)

中原日枝神社の砂丘

谷川低地の泥層と埋土(構之内遺跡)

南原・中原地域の地形
(平塚市1/10000に加筆。等高線は平塚市昭和47年地形図による)


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