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運河の誤解とローエル

火星大接近 2003 (火星と人間)

運河の誤解とローエル

平成15年秋季特別展図録 平成15年10月発行

 1877年、ミラノ天文台のスキャパレリは細い線状の模様を火星面に見て、イタリア語で溝や水路を意味する「canali」という言葉で呼びました。これが英語で紹介される際に「canal」と訳されたところ人工の運河と解されてしまい、火星に高度な文明があるかのような印象になってしまいました。
 1982年の大接近では、リック天文台の巨大な望遠鏡でこの模様の確認が試みられたものの成功せず、模様の存在自体に疑いが持たれかけたころ、アメリカのパーシバル・ローエルは私財を投げ打って天文台を建設、「運河」は火星人が作ったという前提の下に1984年の接近より観測を開始します。
 ローエルはもともとは天文学者ではありませんでしたが、自ら陣頭に立って、ダグラス、ピッカリングらとともに火星を観測しました。ローエルやアントニアジの時代が、地上からの火星観測のもっとも盛んな時代だったかもしれません。1900年代に入ると「運河=火星文明」説はだんだん旗色が悪くなり、火星には生物の存在さえ疑われるようになりますが、ローエル天文台はその後冥王星の発見など、天文学に大きな貢献をします。19世紀末から20世紀初頭、情熱を燃やした火星観測家たちの象徴のような存在です。

ローエル天文台


P・ローエル


ローエルの墓


天文台展示室


展示.室内にあるスケッチ
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