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4B29爆撃機の搭載弾及び搭載量

特別展 44万7,716本の軌跡−平塚の空襲と戦災− (4 平塚大空襲−準備された空襲−)

4.B29爆撃機の搭載弾及び搭載量


 平塚空襲には、第314飛行隊の4部隊が参加した。この4隊132機が搭載した爆弾の種類及びその搭載量は次のようになっています。
 1隊の搭載弾は、AN-M47A2100-I.B.と呼ぶ大型油脂焼夷爆弾でした。そして、残りの3隊は、AN-M17A1500-I.C.と呼ぶテルミット・マグネシュウム焼夷弾を搭載していました。昭和20年5月段階では、海軍火薬廠の攻撃に対して、焼夷弾をAN-M50A2(4-I.B)、あるいはAN-M69(6-I.B)を使用し、攻撃することになっていましたが、実際に使用された焼夷弾は、M47及びM17でした。ところで、焼夷弾類は、I.B.弾とI.C.弾とに大別できます。M47はI.B.弾、M17はI.C.弾といわれた焼夷弾です。I.B.というのは焼夷爆弾(Incendiary Bomb)の略で、焼夷効果と同時に爆風効果も併せた大型焼夷弾の一つでした。I.C.というのは集束焼夷弾(Incendiary C1uster)の略で、I.C.一発の中に多数の小型I.B.(M17の場合は、AN-M50 4-I.B.)を束ねて詰め込んでいました。平塚の投下された焼夷弾のうちM47焼夷弾は投下する際T19アダプター(集束器)というものを使用し、6発ずつ集束して投下したといいます。また、M17焼夷弾の場合は、M50 4-I.B.を110本束ね投下していたことがわかります。投下されたM47・M17は、目標上空で安全装置が外れるようにセットされています。装置が作動してからは、結束していたバンドがはずれ、一本一本の焼夷弾が降り注ぐように落下したのです。平塚空襲では、この装置は上空5,000フィート(1,500m)で作動するようにセットされていました。この高さは、M47の場合、500平方メートルあたり6発が落下する計算に基づき決められたものです。また、M17の場合、3.3平方メートルあたり1.6発が落下するための高さでした。したがって、焼夷弾の投下高度は、攻撃効果を最大限に有効とするために計算され尽くした高さであったことがわかります。
 M47焼夷爆弾(日本側は、この焼夷弾を50K油脂焼夷弾と呼ぶ)は、本体にガソリンにゴム・灰汁・ココナッツ油を成分とするゼリー状の混合剤を封入したもので、長さ1.22メートル、直径20.32センチ、45.3キロの重量をもっています。その抜群な貫通力は、大きな建造物の破壊に適し、屋根を突き破ると建物内部で焼夷弾のなかに仕組まれた爆薬が破裂、本体を壊して引火して燃え上がったゼリー状のガソリンを15〜30メートルの範囲に円錐状に飛散させました。
 M50焼夷弾は、アルミニウム粉末に酸化鉄を成分にした、長さO.61メートル、直径約5センチ、重量2キロの六角棒状の焼夷弾です。木造住宅のような頑強ではない建造物への着火力に富み、まず、屋根を突き破り停止すると焼夷弾に仕組まれた充填剤が発火、続いてその急激な発熱によってマグネシウム製本体に引火し、火炎は1,300℃以上で10分間燃え続けました。
 平塚空襲参加機数136機(攻撃機132機と電波妨害機4機)が搭載するM47I.C.とM17I.B.仕様の搭載量は、次のようになっていました。
 
 爆撃機数(B29) 焼夷弾数  焼夷弾仕様   搭載重量
 97機      3,819発  AN-M17All.C.  954.8トン
 39機      7,162発  AN-M47A21.B.  246.9トン
計136機     10,961発         1,201.7トン

 この他、AN-M46照明弾(空中で燃え尽くすため、投下重量には加えません。)を56発搭載していました。一機あたりの総搭載量は、8.8トンになります。これら搭載弾の実際の投下焼夷弾数は、

  焼夷弾数   焼夷弾仕様    搭載重量
  3,691発   AN-M17All.C.   922.8トン
  6,951発   AN-M47A21.B.   239.7トン
計 lO,642発1,162.5トン

 で、投下焼夷弾数は全搭載量の97.8パーセントが目標地点に投下されたといいます。なおAN-M46照明三弾は、54発が投下されています。
 ところで、M17I.C.焼夷弾とM47I.B.焼夷弾は、ともにM17は、AN-M50を110本、M47は6本ずつ集束した焼夷弾で、1,500メートル上空で安全装置が作動し、一本一本に分かれ落下したことは先に述べました。したがって、地上に落下した実際の焼夷弾数は、3,691発×110本=406,010本+6,951発×6本=41,706本の44万7,716本もの数になります。当時、平塚市の人口は、54,050人とあります。したがって、一人あたり8.3本の焼夷弾が降り注いだことになります。これはもちろん、一人一人の市民に対して、実際に8.3本の焼夷弾が落下したことを意味するものではありません。推定死者1O万以上といわれた、昭和20年3月10日の東京大空襲でさえ、その投下された焼夷弾に違いはありますが、36万1,855発といわれていますから、小都市平塚の空襲が、如何に激しい空襲であったか理解できます。そして、その激しさは、全国の空襲の中で一・二を争うものであったといわれています。
 実際に焼夷弾を搭載してきたB29は132機でした。これらB29の爆撃高度は、作戦計画によれば、3,300〜3,660メートル(空襲参加4隊ごとに異なる高度を設定しています。)でした。しかし、実際の爆撃高度は、3,270〜3,870(4,560)メートルで、132機のうち1機は、エンジン不調のため攻撃目標前に焼夷弾を投下、さらに、2機は故障のため爆撃を中止、残り129機がレーダー照準操作(海岸線を基準にしたオフセットレーダーシステム連動方式といい、レーダースクリーンに水陸が明確な場所を、攻撃開始地点及び目標として選ぶ)により、直接主要目標に焼夷弾を投下したといいます。がしかし、129機のうち、5機はレーダー不調のため、肉眼修正により爆撃を行い、9機は、爆弾投下関連装置の機械が故障したため、目標地へ投棄処分したとあります。






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