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平塚大空襲−準備された空襲−

特別展 44万7,716本の軌跡−平塚の空襲と戦災−

4 平塚大空襲−準備された空襲−


 昭和20年7月16日、平塚は米軍による大規模攻撃の対象となり空襲を受けます。米軍が平塚を大規模攻撃の対象とし、空襲する理由は、戦時下の平塚が、1)航空関連工業の重要地点であること。2)海軍兵器工場・航空技術開発の研究機関が集中する地点であること。3)横浜〜横須賀〜平塚を結ぶ神奈川県の主要工業三角都市の西の拠点であることなどが理由とされていました。
 昭和20年7月16日の空襲以来、今日まで多くの市民は、平塚が空襲される理由に海軍火薬廠の存在を上げています。「平塚に海軍火薬廠があるため平塚は空襲される」と思っていた。あるいは、「海軍火薬廠があったから空襲された」と考えていたからでした。しかし、米軍の空襲理由からでは、海軍火薬廠の存在が全く触れられていないことがわかります。確かに海軍火薬廠は、昭和20年6月20日に米軍が作成した対日本戦での最終攻撃目標に、"Target Number 1336" Navy Arsena1(海軍火薬廠)として記載し、攻撃目標の一つに数え上げています。がしかし、平塚を空襲する場合の主たる理由に、海軍火薬廠の存在だけを特に取り上げることはできないといえます。
 昭和19年5月、米軍は都市攻撃の目標に180都市を大体人口規模順に選び出します。平塚は120番目にリスト・アップされていました。米軍は、昭和19年7月のサイパン島の占領以後、11月24日から日本本土に対する攻撃を本格化します。そして、昭和20年3月10日から8月14日までの間平塚を始めとして66都市に大規模な攻撃を実施し、その全てを焦土としたのでした。実際に攻撃された66都市のうち7都市は、東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、尼ヶ崎、神戸のいわゆる大都市ですが、残る59都市は中小都市にわけられます。先の7大都市に対する攻撃は、昭和20年6月15日段階で当初の目的をほぼ終え完全に焦土と化した後、6月17日から米軍は残る中小59都市の攻撃に対象を移しています。
 昭和19年末、平塚市の人口は54,050人でした。平塚は攻撃を受けた中小59都市中52番目に位置づけられる小都市にすぎません。こうした都市が上述した理由で空襲を受ける背景には、軍都平塚の項で述べた理由の外、次のようなことが考えられます。
昭和19年7月、アメリカ軍は日本本土侵攻への重要な足掛かりを掴んだマリアナ諸島を占領するとすぐに、「日本本土上陸侵攻作戦」の本格的な研究を開始します。そして、翌20年5月に九州上陸侵攻作戦と関東上陸侵攻作戦の両作戦が正式に決定承認されます。この両作戦のうち、関東上陸侵攻作戦は、暗号名"コロネット"と呼ばれました。この作戦の上陸地点は、湘南海岸と九十九里海岸であるといわれます。湘南海岸については、具体的な上陸地を茅ヶ崎海岸として、西側面の防備に相模川を利用し、北上侵攻することになっていました。
 こうした本土上陸作戦を含め、米軍が昭和20年7月10日から開始する「本土反撃作戦」(米海軍機動部隊の艦載機による本土攻撃作戦)で、最もアメリカ軍が脅威と感じていた日本軍の戦力に、航空機、及び航空機による特攻攻撃がありました。したがって、米軍の日本の都市攻撃は、はじめから航空関連工業都市、および航空技術開発の研究機関が集中する都市、さらに航空機の燃料を作る石油関連施設を持つ都市が選択攻撃されていたのです。この点、平塚は米軍の都市攻撃目的である航空関連工業および航空技術開発の研究機関の集中する都市に合致していたこと。さらに特攻兵器BAKA機(日本名「桜花」)の生産に関与している事実が認められることにより、不幸にも十二分にその条件を満たしていたといえるのでした。
 では何故、海軍火薬廠が主要な攻撃目標にならなかったのでしょうか、当時の火薬廠は、すでに近くは山北・荻野へ、遠くは舞鶴・敦賀へ工場疎開を計画、暫時それを実施していました。昭和20年段階では、熟練した工員の出征によって、その穴を埋めるため動員された学徒勤労報国隊や挺身隊、徴用工による生産活動では全く従来の生産能力を維持できなくなっていました。また、米軍は同年4月に沖縄本島に上陸、6月の沖縄占領後、日本の占領政策を検討・計画します。そして、同年8月12日に"ブラックリスト作戦"を開始します。この作戦では、戦後平塚に進駐し、神奈川県西部を占領・統治するための師団司令部設置予定地に火薬廠を想定していました。したがって、平塚空襲による被害を、火薬廠においては最小限に止めた空襲を実行しようとしていたと予測できるのでした。
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