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2 軍都平塚−海軍の町平塚−

特別展 44万7,716本の軌跡−平塚の空襲と戦災−

2 軍都平塚−海軍の町平塚−


 近代日本は、他国との戦争に明け暮れた「戦争の歴史」を歩んでいたといえます。全てが戦争遂行のために組織づくられた国家、国民として存在したのです。平塚市域では、明治元年から昭和20年までの僅か77年間に、他国との戦争によって2,300人を越える市民が犠牲になっています。以上のことからも、それは紛れもない事実として認めることができます。したがって、不幸なことに平塚および平塚市民も、戦争遂行のために組織づくられた国民であったといえます。決して、枠外にあることなど許されることではなく、平塚の近代の歴史も、まさに近代日本の歴史と一致せざるを得なかったのでした。
 平塚への軍需産業の進出は、まず、平塚海軍火薬廠の成立によって始まります。平塚海軍火薬廠の成立は、当時の国家要請に叶ったものであり、平塚に創られていくことも歴史の必然であったと見ることができます。火薬廠は、明治38年日本政府と英同アームストロング社ほか二社の合弁会社として、平塚町と大野村にまたがる官有地と、若干の民有地を買収した38万坪(後に、42万坪に拡大)の地に日本火薬製造会社(明治40年、日本爆発物製造会社と改称)として成立します。平塚に火薬廠が建設される背景には幾つかの理由が考えられます。
 かつて、平塚を中心とした地域には、幕府が管理した「御林」が、16力所126町歩余にわたり存在しました。明治21年頃、その幾つかは伐採され、その跡地は「御料地」となって帝室林野局管理下に入ります。明治31〜32年にかけ、「御料地」の一部、地元民に払い下げられますが、国家管理の広大な遊休地が、この平塚には存在したのでした。明治38年、日本は、日露戦争を必死の思いで戦い勝利します。しかし、当時の日本海軍は、無煙火薬を国内生産できませんでした。したがって、無煙火薬は、日本と同盟関係にあった英国から、全量輸入していたのです。日露戦争終了後、日本国内では無煙火薬の国産化が急務とされ、国策として大規模な無煙火薬製造所の建設が計画されます。無煙火薬製造所建設のためには、大規模工場の建設に対応した用地が容易に確保されること、火薬製造に係る原材料・製品の輸送に利便なこと等の諸用件を満たし、また、軍都横須賀に近いことなどが理由とされ候補地の選定に入ります。結果、平塚が選ばれるという歴史的な事情がありました。
 大正8年3月、海軍火薬廠令の制定と同時に、海軍は平塚にある日本爆発物製造会社を、設立の際に取り交わしていた日本政府との契約にしたがい買収し、4月、海軍火薬廠として開庁します。以後、火薬廠は海軍における火薬製造と火薬研究の中心的な工場施設として、国是に添って発展するのでした。そして、この火薬廠の開庁が、以後、平塚を軍需都市として発展する契機を作り、不動なものとしたのです。火薬廠の開庁に続き、まず、大正12年、海軍技術研究所科学研究部が開設します。そして、戦争の激化にともない、まず、昭和12年には、日本航空工業株式会社(後、昭和16年国際航空工業会社と合併、日本国際航空工業株式会杜と改称)が設立され、昭和16年には、横須賀海軍工廠造兵部平塚分工場が、そして昭和17年には、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場と第二海軍航空廠補給部平塚補給工場、さらに二荒航空工業株式会社が設立されます。そしてさらに、関東紡績株式会社が再需工業へ転用され、近江航空株式会社として使用されていました。このように、戦前・戦中の平塚は、軍需産業が基幹産業として定着しており、特に海軍に属する軍需工場やその研究施設が集中した都市に成長したのでした。したがって、平塚に存在した中小の工場や家内工業的な工場においてさえ、先に示した海軍関連軍需工場の下請け工場、あるいは補完的役割を担うための工場として存在したと考えられます。
では、市民はどの様にこうした軍需産業と関係を持ったのでしょうか。火薬廠は、平塚市民の誇りにたるものでした。「火薬廠の工員になる」ことは、海軍の軍籍に入ること、すなわち海軍軍人になることと同じでした。したがって、「火薬廠の工員になる」ということは、平塚では特別の意味を持つことになったのです。確かに、研究所を併設した工場は、他地域からの優秀な人材を平塚市民に定着させることになりました。創業時代の一時期とはいえ、英国式の文化を垣間みる機会にも接します。平塚市民が火薬廠の工員になるためには、併設された海軍工員養成所に入所することでした。工員養成所へ進学を希望するものは、他の上級学校(師範学校)へ進学するものとほぼ同等の優秀さを必要とし、それに応募する者は、県下はもとより広い範囲におよびました。数倍の競争を勝ち得た者が養成工として、先の誇りが補償されたのです。こうした火薬廠に対する思い入れは、戦時下、優秀な工員達の出征により、その穴埋めとして動員される徴用工員、学徒勤労報国隊、女子挺身隊においてすら「火薬廠に徴用される」、「学徒として火薬廠に勤労・報国する」、「挺身隊として火薬廠に赴く」ことが、名誉とされる傾向を生む基になっていきました。しかし、現実は、慢性的な労働力の枯渇とともに、原材料の不足等が影響し、戦争末期では必ずしも、そうした入廠者の思いに対応できない火薬廠の姿を見ることができます。また、徴用・学徒・挺身隊が、入廠して就労する場合、明らかに就労場所に違いがありました。特に、学徒勤労報国隊隊員にあっては、出身学校による明かな差別が、就労場所の違いに表れるという事実を見逃すわけにはいきません。こうしたことが志しを持って人廠した若年労働者の心に大きな傷として広がることも稀なことではなかったと想像されるのです。
 ちなみに、昭和15年12月以来、昭和20年5月までの間、火薬廠へ国家総動員の名のもと、徴用され入廠した徴用工は、延べ人数にして2,045人を数え、この中には、180人を越える強制連行された朝鮮人工員も存在したのでした。また、昭和19年3月から昭和20年2月までの間、入廠した学徒勤労報国隊及び女子挺身隊隊員数は、1,710人を数えています。このように、戦時下、火薬廠だけでも常時、数千入の単位で動員が計られていたのです。
ところで直接、火薬廠などの軍需産業と関係を持たなかった一般平塚市民は、軍事的な生産活動と、どの様に係わっていたのでしょうか。銃後の役割として、出征兵士家族の経済的負担を少しでも軽減しようと国防婦人会や在郷軍人会、さらには町内会は市内各所に小規模な授産所を次々に開設します。そして、各授産所では組織的に各種の軍事物資を生産していました。したがって、市民の多くは、こうした場を通して軍事的な生産活動に身を投じていたといえます。では、組織されなかった市民はどうだったのでしょう。当時、家庭にあまり普及していなかったミシンを持つ家庭は、必ずといって、そのミシンを利用した軍事物資の生産を強制されていたのです。このように直接・間接に、また組織的に、あるいは未組織であっても、全ての市民は、何処かで戦争とつながる糸を白ら手繰り寄せ、あるいは縛られ、密接に結ばれていたのでした。
 昭和20年3月10日の東京大空襲は、全てを焼き尽くし、死者10万といわれる犠牲者を出しました。そして、以後、米軍は日本各地で同様な空襲を繰り返します。米軍が、こうした空襲を日本の各都市に実施した理由の一つに、「無差別」の空襲を繰り返すことによって、日本国内に厭戦感を生み出させるためであったといわれています。しかし、米軍は、3月10日の東京大空襲に、本所・深川・神田・下谷・浅草地区等を選んだ理由に、この地域が大規模な軍需工場の補完的役割を担う中小の工場が密集する地域であり、各家庭がさらに小さな軍需工場としての役割を持っており、この地域全体が巨大な軍需工場であるとの見方をしていました。このことがこの地域を空襲対象地域に選びだした理由であるとしているのです。したがって、3月10日の空襲は、一概に「無差別」な攻撃とはいえない側面も持ちあわせていると考えられるのです。
戦争末期、都市人口5万余の小規模都市が、空襲対象地域とされる理由は、東京で空襲対象とされた地域と同様に、平塚全体が、まさに5万余の従業員を抱える一大軍需工場であったという理由からと考えることができます。事実、徴用工員・学徒勤労報国隊隊員・女子挺身隊は、唯一、火薬廠にだけ動員されていた訳でなく、火薬廠以外の軍需工場にも多くの人々が、全国から動員されていたといわれます。当時、平塚へ流入した人の実数は不明であるにしても、先に述べた火薬廠の例に見られるように、恐らく、1万を越える相当数の人々が平塚へ流入していたと考えられ、こうした流入人口の大半が軍需工場の従業員であることを考えれば、戦前・戦中の平塚は紛れもない「軍需都市」として、位置づけることができるのです。
そこで、平塚市内にあった軍需工場について、米軍はどの様に見ていたのでしょうか、米軍は、後述することですが、平塚を大規模空襲するために、昭和20年の4月頃からその検討に入り、5月3日の段階で、その作業をほぼ終え、火薬廠及び日本国際航空工業について、報告書をまとめています。その報告書には次
のようにあります。

■海軍火薬廠について
その重要性について:この標的は横須賀海軍軍需工場および兵器製作所の支部にあたる。また、4〜5ヵ所ある日本海軍軍需工場の1ヶ所で、爆弾開発の中心施設の一つである。また、最も確かなこととして、昭和19年12月13日の偵察飛行によって、既に報告されていた「BAKA」(米軍は、この「BAKA」を「ロケット噴射推進式で操縦する自滅型航空機」と呼び、日本名は、特攻機「桜花」です。)のためのロケットの火薬を製造していること。そのほかの製造物としては、ダブルベース火薬、二卜ログリセリンの中規模工場(第七工場のこと)、黒色火薬や信管・雷管・爆弾および、恐らく砲弾も収納していること。爆弾や機雷の容器の鋳造や鍛冶あるいは、小さな船舶用エンジンの組立および修理のための小規模工場もあること。軍用品および爆薬の貯蔵庫もあるとしていたのです。これらの報告は、火薬廠内部について知り得る資料を全く持ち合わせない現在、私どもが最も興昧とする記述になっています。

■日本国際航空工業について
その重要性について:火薬廠同様まず一番に、特攻機「桜花」に関する記述があります。ここは、白滅型ロケット航空機を作っていると報告されている二つの会社の内、最重要工場であり、これらの航空機の部品の生産もしくは航空機の組立がおこなわれていること。
 また、輸送機・訓練機、そのほかの航空機用のさまざまな大きさの機体が作られていること。さらに、フランク(疾風の米軍愛称)用の可変プロペラの生産を行い、日本で3番目に重要なプロペラ製作所であると日本国際航空工業(以下「日国」と略称)を見ていました。
 そして、さらに日国内の生産の流れについても記しています。工場を南から北へ見ていくと南東の隅に倉庫建物があり、次の北および西に小さな製作場があり、そこでは、恐らくプロペラかロケット式航空機の小さな部品を作っていること。敷地の中心に3棟の大きな建物があり、恐らく、機体の製作と北端の高屑になっている場所では、組立作業も行っていると思われること。主敷地の西側に沿って2棟の大きな建物があり、あるいは機体や他の製作物用の組立ラインがあるのかも知れないこと。敷地の北端の大きな建物は、1944年12月13日と1945年2月11日の間に屋根に天窓が付けられたこと。その東には実験室と思われるものがあること。そして、そこではハブ(プロペラの中心の円筒形の部分)とプロペラの最終組立かロケット式航空機の部品の改良(調整)をしているかも知れないこと。組立を終わった機体は屋外の空き地に置かれ、その大半は輸送機タイレア(日本名不明、昭利20年2月11日の偵察飛行では、このタイレアが128機、工場及び隣接区域見えると報告されている)に使用されているようだが、他のさまざまな大きさの飛行機もあること。翼の組立が見えないのは、恐らく、白減型ロケット式航空機を除いて、ここでは組立が行われていないことを示唆していることなどが記載されていました。
 また、迫加情報に、日国によって製作されている航空機は、8種類あったこと。日国が作っている白滅型ロケット式航空機を製作している工場が、大船(富士航空工業大船工場)にもあることなどでした。
この海軍火薬廠、日本国際航空工業の2工場の製作物に関して共通する点は、白滅型ロケット式航空機とあり、「BAKA」とあだなされた「桜花」の記述があることです。火薬廠で推進火薬を製造し、日本国際航空工業で機体を製作・組立ていたことが、平塚が空襲を受ける直接的な理由の一つとなったのでした。

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