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戦争と子供−巻き込まれた子供たち−

特別展 44万7,716本の軌跡−平塚の空襲と戦災−

5 戦争と子供−巻き込まれた子供たち−


 総力をあげて戦わざるを得なかった日本の戦争は、人的にも物的にも強力な国家管理を押し進めずして、その消耗戦を戦い抜くことはできませんでした。昭和13年「国家総動員法」を制定し、翌14年には、戦争を行うための労働力の確保を目的とした「国民徴用令」を制定します。昭和16年対米英開戦直前に、軍人そのほか特定の者を除き、満14から40歳未満の男子と満14から25歳未満の未婚の女子すべてを国民勤労報国隊に編成するための法令「国民勤労報国脇力令」が定められます。しかし、戦争の激化は、政府の戦時動員計画を上回る数で兵力を投入したため、「国民勤労報国協力令」だけでは、国内労働力の確保は難しくなっていきました。そこで、昭和19年に、「女子挺身勤労令」や「国民勤労報国協力令」を改正して、動員年齢を男子60歳未満、女子40歳未満と大幅に引き上げ、重要産業への労働力確保が計られていきました。こうした労働力確保の施策によっても、戦争が最終段階に入った昭和20年になると確保はさらに難しくなり、今までの諸法令を廃止して、3月には「国民勤労動員令」を制定して、各工場、各事業所労働力の確保と就業の徹底化を計るようになります。
 一方、平時であれば学業専一とされた当時にあって、労働力確保の観点から中学生以上の学生生徒も必要に応じて、工場・事業所に配置して、勤労に従事させられました。戦時体制の学生生徒の勤労は、精神修養を主目的に集団勤労作業という形であらわれます。まず、「国民勤労報国協力令」にあわせ、昭和16年に、「学校報国団体体制確立方」を文部省訓令として指示し、集団勤労の訓練にあたり、適時、実効を収める体制を取るよう指令されます。昭和18年「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学生生徒は、学業即勤労という実質的な戦時下勤労動員の一翼に組み込まれていきます。昭和19年、「緊急学徒勤労動員方策要綱」および「決戦非常措置要綱」さらに「決戦非常措置要綱二基ク学徒動員実施要綱」が次々と閣議決定され、8月学徒動員の基本法というべき「学徒勤労令」が勅令という天皇の命令により、学校報国隊が学校単位で編成組繊され、各地軍需工場に動員されることになりました。
現在、当時軍需工場に働く学徒勤労報国隊の実態については、わずか平塚海軍火薬廠での学徒動員生のことしかわかりません。もちろん、横須賀海軍工廠、近江絹糸、「日本国際航空工業、海軍技術研究所および寒川工場への学徒動員あるいは女子挺身隊の動員については、いくつかの本の中に「思い出の記・手記」として語り継がれ、多くの情報が届けられています。
 平塚海軍火薬廠の学徒勤労報国隊は、昭和19年5月25日、平塚工業生47名と小田原中学生162名により編成された第1回学徒勤労報国隊の入廠を最初とします。以後、20年1月8日第12回入廠の茨城県麻牛中学生104名まで、延べ人数1,086人が入廠しています。これら学徒生の年齢は、16から20歳でしたが、第10回入廠の平塚国民学校生徒の年齢は、わずか13歳での入廠であったことがわかっています。こうした動員学徒が、はたして実質的な生産作業にあたることができたかについては疑問にならざるをえません。まさしく、不足した労働力を補うために、根こそぎ軍需産業へ駆り立て、労働力を確保し、学徒動員生を各種生産の中核に位置づけなければならなかった追いつめられた日本の姿がそこにはあったのです。
 日本本土の初空襲は、昭和17年4月18日のことです。この日は米空母から発進した、陸軍中型爆撃機ノースアメリカンB25,16機によるもので、うち13機が京浜地方、そして7・8機が川崎、横浜、横須賀を襲ったものです。当時、平塚は、高麗神社の春の大祭日にあたり、花水橋周辺は、多くの人出で賑わっていたといいます。そこに1機の黒い機体を持つ飛行機が突如として出現したと多くの人が記憶します、幸い投弾行為はなかったため、それが米軍による日本初空襲であったことは、後で知ることとなります
 この空襲は、後に米軍が日本に対して本格的に行う空襲とは較べようのないものでしたが、この空襲をきっかけに、防空体制および防火体制の強化が計られたことも確かなことでした。
 昭和19年6月、米軍はマリアナ群島のサイパン島に上陸を開始します。そして、8月までの間にテニアン・グアム両島の奪取にも成功します。そして、各島々のB29の基地が整備されると、日本本土は、完全にB29の攻撃圏内に入ることになります。
 昭和19年11月、米軍は本格的な日本本土空襲の第一歩を踏みだし、以後、B29による継続的な空襲を日本各地に実施するのでした。昭和19年3月、「一般疎開促進要綱」を閣議決定しますが、この要綱に基づき東京都は「学童疎開奨励二関スル件」を通牒し、いわゆる縁故疎開を進めます。そして同年6月、「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、縁故疎開できない子供達を勧奨による集団疎開として実施することにしたのでした。神奈川県内では、こうした集団疎開の対象となった都市は、横浜、川崎、横須賀の三市でした。平塚へは、このうち横浜市から富岡国民学校児童59名が土沢村へ、また、川崎市から、田島国民学校児童189名が神田村へ、日吉国民学校児童358名が金田村・旭村へ、川崎国民学校児童383名が金目村・岡崎村へ、新町国民学校児童180名が豊田村・城島村へ、それぞれ疎開しています。こうして戦争の激化と共に、子供達も白分達の意志に関係なく、その戦いの渦の中に飲み込まれていきました。
空襲が激しくなる以前にも子供達は、確実に戦争という現実から逃避できませんでした。児童が小国民として戦時下で果たす役割は高く、次代を担う兵士の卵であり、銃後の守りを固める重要な国民であるとされました。昭和16年に改称された国民学校という名前には、小学校という名前が、単に中学、大学へのステップであるとの印象を与えることから、小学校だけで社会に出る国民には、国が十分な初歩的教育だけでなく、基礎的錬成(皇国民としての規律、体力、気力、愛国心を養うための訓練)を与え、完成された国民として世に送り出している印象を国民学校という名前に求めたからでした。そして若年層を国家総動員体制へいち早く取り込むことを目的としたのです。次代を担う兵士の卵であること、銃後の守りを固める強い意志を持つこと、これらを国民学校児童に強制するため、さまざまな機会を捉え、さまざまな催しものが国民学校を舞台に展開されます。先に紹介した戦時色を濃厚にして行われる国民学校の学芸会や運動会、さらに町内会・婦人会・在郷軍人会などが開催する慰安会などにも国民学校児童は、動員され、学芸会同様の戦時色の濃い芸能を披露させられていました。こうした催しものの中で、最も厳粛で、感動に満ち、兵士の卵であることを自覚し、銃後の守りを固めなければならないと確信させるための学校行事に、兵士の壮行会と英霊の帰還、すなわち盛大に執り行われる葬儀がありました。
 兵士の壮行会や英霊の帰還に際して、国民学校児童が直接、準備や次第・進行を勤めるわけではありません。しかし、必ずこうした行事には、国民学校児童が中心的な位置をしめていました。まず、兵士の壮行会や英霊の帰遠に際し、実施されたそれぞれの式典は、国民学校の校庭が、その舞台として多く使用されました。そして、式典のメインのゲストは、必ずといって国民学校児童が選ばれ、参列者の中央に配列させられたのです。
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