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9空母艦載機による平塚空襲

特別展 44万7,716本の軌跡−平塚の空襲と戦災− (4 平塚大空襲−準備された空襲−)

9.空母艦載機による平塚空襲


 7月16・17日の平塚大空襲は、その被害が市街地により多く、一部軍需工場では比較的その被害も軽微であったり、被害を受けても操業が停止してしまうほどの打撃には至らなかった軍需工場もありました。たとえば、火薬廠の被害は5パーセントであり、日本国際航空工業の被害は10パーセントにすぎませんでした。火薬廠の被害程度が低い背景には、前にも記したように「火薬廠は温存し、火薬廠内に神奈川県西部を占領・統治するための師団司令部を設置しようと予定していたため、最初から空襲の被害を最小限に止めた空襲にした」という理由によるものです。日本国際航空工業は、構内に140発もの焼夷弾を受けながら、この空襲では操業停止に至らず、空襲後は各工場建物を強制間引き(一部、構内工場建物を強制的に撤去し、工場と工場の間を広くし、被弾した場合の被害を最小限に止めようとした。)までして、操業を続けていました。また、横須賀海軍工廠の被害は、50パーセントと工場の半分に被害が及んでいましたが操業を完全に停止するまでには至っていませんでした。こうしたことから、米軍は16・17日の大空襲に引き続いて、以後、2度にわたる空母艦載機による空襲を平塚において計画・実施します。

1)7月30日の空襲
 この日の空襲に参加した空母艦載機は、SB2C力一チス16機とF4Uコルセア24機の計40機の空母艦載機により実施されています。参加空母は、ワプス・シャングリラ・ヨークタウンの3航空母艦でした。
3航空母艦から発進した攻撃機40機の行動は、次のようになっています。
 まず、午前8:00にシャングリラ発艦のSB2C6機が日本国際航空工業を攻撃します。続いて、8:10にワプス発艦のF4U10機が平塚海軍技術研究所寒川工場を攻撃。同時刻には、ワプス発艦のSB2C10機が平塚市街地を攻撃しています。さらに、8:30シャングリラ発艦のF4U8機が日本国際航空工業を攻撃。8:50にヨークタウン発艦のF4U6機が、再び日本国際航空工業を攻撃していました。
 この日の攻撃の主目標は、日本国際航空工業でした。したがって、日本国際航空工業には、8:00・8:30・8:50と延べ20機の艦載機が、三波にわたり攻撃しています。事実、この日、日本国際航空工業では、18発の500ポンド爆弾が、第2・6・7工場を中心に投下され、20名以上の死亡者(平塚空襲による月日別死亡者数によれば、この日の空襲による犠牲者は25名になっています。)と100名を越える負傷者を出していました。この日、平塚市域では午前6時10分、警戒警報が発令され、その10分後に空襲警報に変わります。この警報のために、第二国民学校(現港小学校)では、16日に受けた空襲の跡片付け作業(第二国民学校は、16日の空襲により全焼しています。)を、職員児童を含め、連日実施していましたが、その作業は中止になっています。また、学校は機銃掃射され、職員室に軽微とはいえ被害があったと学校日誌に記録しています。さらに、この日の攻撃は、火薬廠を取り囲むように、すなわち火薬廠防衛のため配置されていた大野砲台をはじめ東砲台も攻撃の目標にされていました。この日の攻撃によって、砲台を守備する兵士のなかにも負傷者が続出し、後述する「戦災死傷者手当」の中では、負傷の程度やその手当の状況などが判明します。また、大野町の「戦災二依ル死亡者報告」によれば、大野町では、この日八幡地区で3名の死亡者があったことを報告しています。
 米軍の記録によれば、この日、日本国際航空工業には、6トン計24発の500ポンド爆弾ほかを投下したことになっています。また、平塚市街地を攻撃した艦載機は、5トン20発の500ポンド爆弾を投下したとあります。しかし、直接、市街地を攻撃の対象とした訳でなく、当日、横須賀海軍工廠も攻撃されていることから、爆弾の攻撃は工廠に対して実施されたものと考えられます。なお、寒川工場を攻撃した艦載機には爆弾の搭載は記録されていません。したがって、機銃掃射による攻撃が主であったと考えられます。また、当日、早朝通勤途中機銃掃射を受けたとの証言や通勤途中の東海道線上り列車が、機銃掃射を受け、相模川鉄橋で立ち往生したと、その列車に乗り合わせた乗客の証言も得ています。

2)8月13日の空襲
 この日の空襲に参加した空母艦載機は,F6Fグラマン28機、F4Uコルセア4機、力ーチスSB2C21機、TBMアベンジャー8機の計61機の空母艦載機による攻撃でした。参加航空母艦はハンコック・ベローウッド・ベニントン・レキシントン・サンジャシントの5航空母艦です。
 5航空母艦から発進した攻撃機61機の行動は、次のようになっています。
 まず、8:00に空母ベローウッド発艦のTBM7機とF6F13機が攻撃を行います。この20機の攻撃目標は、内15機が日本国際航空工業の攻撃に、残る5機は第二海軍軍航空廠を攻撃します。続いて、8:15に空母レキシントン発艦のF4U4機が、日本国際航空工業に対し、第二波目の攻撃を実施します。続けて、8:30空母ハンコック発艦のSB2C11機、空母レキシントン発艦のSB2C10機、空母サンジャシント発艦のF6F15機の計36機が攻撃に加わります。このうちSB2C1機は、平塚市街地を攻撃し、SB2C7機が市内の工場を攻撃します。そして、残るSB2C13機とF6F15機全機の28機が、第三波目の攻撃を日本国際航空工業に対して実施します。そして、最後に空母ベニントン発艦のTBM1機が、第4波目の攻撃に参加し、日本国際航空工業に攻撃を加えてこの日の空襲をすべて終えています。
 この日の攻撃に対する日本側の記録は、極めて少なく本当にこうした比較的大規模な攻撃が実際にあったかどうか証言を通しても聞かれません。しかし、米軍の記録は存在し、実際に攻撃に参加した攻撃機の報告書「アクション・レポート」もあります。2日後、日本は市民も予想だにしなかった敗戦という事実に直面します。戦争を戦い抜くという極めて異常な緊張感が、その後も続いていたなら、あるいは人々の間にもこの日の記憶は薄れず残ったかも知れません。2日後の敗戦の経験は、その時の虚脱感と安堵感との入り交じりの中に忘れ去られたのかも知れません。






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