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8そのほかの空襲

特別展 44万7,716本の軌跡−平塚の空襲と戦災− (4 平塚大空襲−準備された空襲−)

8.そのほかの空襲


 平塚市民が、平塚の上空で敵機をはじめ見た日は、昭和17年4月18日です。この日は、大磯高麗神社の春の例大祭でした。この一機の米軍機が、京浜地方および川崎・横浜を空襲し、中国へ逃れるための飛行であったことを、当時、知っていた人は恐らくいなかった筈です。
 米軍は、昭和19年11月、日本本土に対する空襲を本格化します。当初、空襲は、高高度を編隊を組んで飛行しながら、日本の最も重要な航空機工場を最優先して実施されました。したがって、この頃から平塚でも高高度で翼を光らせながら飛ぶB29を見ることができました。今まで高高度に飛んでいたB29が、比較的低高度で平塚上空を飛ぶ姿を見る機会は、昭和20年2月11日(この日は、火薬廠や日本国際航空工業を偵察するため、火薬廠の上空を通過しています。第2章参照)が最初です。以後、平塚の市民は、米軍の飛行機を見なれるようになります。はじめて平塚が空襲されるのは、昭和20年2月16,17日のことです。この両日は、関東全域にわたり空母艦載機(グラマンと力ーチス)による空襲がありました。この2日間にわたる空襲は、米軍の硫黄島上陸作戦にともなうもので、上陸を支援するための空襲でした。17日の平塚空襲は、平塚駅がその攻撃の目標とされていたといわれます。そして、空襲による犠牲者もあったといわれますが、確かなことは分かりません(空襲による死亡者を月日別に見ると、この日3名の死亡者が確認できます)。3月、硫黄島は米軍の占領するところとなり、この頃から(4月7日以降)、米陸軍の戦闘機P51(ムスタング)が飛来するようになります。4月、米軍の沖縄上陸作戦が開始されます。したがって、以後の空襲は、この沖縄上陸作戦の支援のための空襲と東京をはじめ川崎・横浜空襲するB29の護衛機として飛来するP51戦闘機の空襲になります。こうなると平塚上空を敵戦闘機が飛ばない日はないぐらいの激しさになります。これは直接の攻撃があったことを示すものではありませんが、ようは連日のように空襲警報は、発令されるようになります。7月、沖縄は完全に米軍の占領するところとなります。7月10日、空母機動部隊による"本土反撃作戦"が開始されます。本土反撃作戦が開始された6日後、7月16日に、平塚はB29による平塚大空襲が実施されました。以後、飛来する飛行機は、そのほとんどが空母艦載機によるもので、平塚大空襲以後も平塚は、8月15日敗戦の日の前日、すなわち14日まで、連日のように空襲の恐怖に晒されるのでした。






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