わたしたちは「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館です

1 平塚の戦争

特別展 44万7,716本の軌跡−平塚の空襲と戦災−

1 平塚の戦争−出征と戦地と死−


 平塚市には、おそらく全国的にみて、同種の刊行物の中で、最も早い時期に編集を終え、刊行された一冊の本があります。その本は、「平塚市戦没者名鑑」(平塚市教育委員会編集、昭和34年8月1日発行)といいます。この本の特徴は、明治以来の戦争犠牲者を平塚市域に限り、漏れなく登載していること、また、市域から出征して戦没された方だけでなく、学徒勤労報国隊や女子挺身隊、平塚大空襲時に公務執務中の犠牲者、さらに従軍看護婦などの戦争犠牲者を広く登載したことにあります。戦没者名鑑には、2,365人の方々が登載されています。このうち、日清戦争や日露戦争戦没者、第一次大戦の戦没者、戦病死や療養中に亡くなられた方などを除き、いわゆる満州事変以後の戦闘による戦没者は、1,811人に上ることがわかります。(戦病死の方を戦争犠牲者から除く愚かなことはできません。療養のため日本に戻り亡くなられた方が多く、そうした皆様は、何処で負傷したのか不明なため、仮に除きました。)この1,811人について、その年齢に関係なく、死亡年月日別にどの地域の戦闘で犠牲になったのかを見ると、昭和16年を境にその死亡地域に明確な違いが現れます。
 昭和16年以前の死亡地域は、かつて満州と呼ばれた中国東北部や中国全土に限られたものでした。しかし・昭和16年12月以降、日本が米・英両国と戦争状態に入ると、その死亡者は、東太平洋地域、ニューギニア、南太平洋諸島、さらに東南アジア諸国と一気に拡大します。そして、その状態は、昭和19年4月まで続きます。同年5月以降・出征市民の死亡地域は、中部太平洋地域にその中心が移ります。特に7月に入るとマリアナ群島サイパン・グアム・テニアンといった島々での死亡者が激増します。そして、同年10月を過ぎる頃より次第に西太平洋地域に死亡者の中心が移り、フィリピンが主たる死亡地域になっていきました。レイテ・ミンダナオ・セブの各島々とフィリピン本土が主たる戦場となり死亡者が激増したのです。一方、この頃、東南アジア諸国では、ビルマ戦線での敗退が確実なものになり、この地域での死亡者が増加しだします。昭和20年3月、日本本土とマリアナ群島のほぼ中央に位置する硫黄島が激戦地となり、ここでも多くの出征市民が亡くなります。同年4月、戦線は沖縄に移動し、石垣島・宮古島などの周辺島々から沖縄本島で亡くなる方が多くなります。フィリピンでは、ミンダナオ・レイテで激戦が続き、6月30日から7月1日までの二日問で、レイテ島カンギホット山で50名を超える出征市民が死亡します。中国大陸での死亡者は、昭和6年以来、昭和20年までの15年間で、実に、400人以上の出征市民が犠牲になっていました。20年7月以降、再び中国東北部満州や朝鮮での死亡者が増加します。昭和20年8月15日以後になっても、出征市民の死亡は、中国・フィリピン・ボルネオ・ニューギニア・千島・台湾・インドネシアで続きます。そして、同年9月以降、特にその死亡地がシベリヤ地域に集中し、ほぼ昭和24年まで続いたのです。このように戦没者名鑑に登載される戦争犠牲者の実態は、日本の戦争が「何処でどんな戦いをしてきたか」、「その結果はどうなったか」を如実に物語っていると考えることができます。
まさに、「平塚の戦争」は、日本の戦争を色濃く投影したものなのです。(図1参照)
 日本の戦争は、柳条溝事件(昭和6年9月18日)を発端とした「満州国」樹立、盧溝橋事件(昭和12年7月7日)をきっかけとした日本・中国の全面戦争、真珠湾攻撃にはじまる日本の対米英開戦と続き、そして昭和20年8月15日の敗戦に至るまで15年間の長きにわたり戦争を続けたのでした。その間の人的損害は300万人といわれています。
この300万の人々は、平塚の出征市民と同様に同じ時期に、同じ場所で、同じように亡くなっていったのでした。
戦場とされた多くの場所では、出征市民だけではなく、特に中国や朝鮮、そしてアジアの国々の人々も多く犠牲になりました。たとえば、中国軍戦死者は常に、日本軍戦死者の2〜5倍であったといわれています。もちろん、日本国内外を問わず、軍籍に関係しない人々の犠牲は、いまだにその実数すら掴めない状況にあります。15年戦争は、「聖戦」の名のもと、侵略を覆い隠した戦争でした。そして、日本のみならず多くの国、多くの人々を巻き込み、多大な犠牲を強いた戦いということができます。


ページの先頭へ